本多忠勝(ほんだ・ただかつ)  1548〜1610

徳川家臣。本多忠高の子。母は植村氏義の娘。幼名は鍋之介。通称は平八郎。従五位下・中務大夫。姓は藤原氏。
天文18年(1549)11月に父・忠高が安祥城の戦い:その2で討死したため若年より徳川家康に仕え、初陣は13歳で永禄3年(1560)5月の桶狭間の合戦に係る大高城への兵糧搬入であった。
その後も永禄4年(1561)7月の鳥屋根城攻め、永禄6年(1563)の三河国一向一揆の鎮定戦などに従軍、永禄9年(1566)には徳川家中の軍制再編で騎馬50騎持、一手役の将に抜擢された。
元亀3年(1572)末の三方ヶ原の合戦には退却する徳川勢の殿軍を務めた。このとき忠勝は、敵味方の真ん中に馬を乗りいれて鬼神のような形相で敵陣を睨みつけ、その凄まじいばかりの気迫に武田軍の将士は恐れて動けなかったという。
このほかにも天正3年(1575)5月の長篠の合戦、天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦など数々の合戦で戦功を挙げ、しだいに頭角を現した。その生涯における戦歴は50回以上といい、傷を受けたことがなかったともいわれる。
また天正10年(1582)6月、和泉国堺を遊覧していた家康に随行していたが、京都で本能寺の変が勃発。自害の覚悟を決めた家康を説得し、家康の伊賀越えに従った。
天正16年(1588)、従五位下・中務大夫に叙任された。
天正18年(1590)の小田原征伐にも従軍。戦後に徳川氏が関東へ移封した際、上総国大多喜城主として10万石の所領を与えられた。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役においては井伊直政とともに、福島正則ら豊臣系の大名群を管理する軍監役を務めた。
慶長6年(1601)には伊勢国桑名城で15万石を与えられたが、うち5万石を二男の忠朝に与えた。
慶長15年(1610)10月18日に桑名で没す。63歳。法号は長誉良信西岸寺。
蜻蛉切』と呼ばれる槍を得物とし、「家康に過ぎたる(もったいない)ものが2つある。唐の頭(中国の兜のこと)に本多平八」と謳われた武勇の誉れ高い勇将。『徳川四天王』のひとりとして名を馳せ、井伊直政榊原康政酒井忠次とともに並び称された。