加藤光泰(かとう・みつやす) 1537〜1593

豊臣家臣。加藤景康(景泰)の子。通称は作内。名を景教・光康とも。従五位下・遠江守。
美濃国多芸郡の土豪で、はじめ斎藤氏に属していたが、織田信長によって斎藤氏が滅ぼされると浪人となる。ほどなく羽柴秀吉に召抱えられた。
はじめはわずか30石ばかりの知行だったが、功を重ねて立身した。
元亀3年(1572)、浅井長政に近江国横山城を攻められたおりに城外で左膝を負傷し、竹中重治らに助けられて窮地を脱するも、以来足が不自由になった。
天正2年(1574)、近江国内で1千5百石を与えられる。播磨国三木城攻めの功で5千石を加増され、天正9年(1581)の因幡国鳥取城攻めにも従軍した。
天正10年(1582)の山崎の合戦後に、明智光秀の領していた丹波国亀山城主と1万7千石を与えられ、のちに近江国貝津城主、高島城主2万石を務め、天正13年(1585)には美濃国大垣城主として4万石を与えられた。
だが秀吉の蔵入地で不正を働いたため、知行を召し上げられた。のち、一時は羽柴秀長に属したが、天正15年(1587)に許されて近江国佐和山城と2万石を与えられ、従五位下・遠江守に叙任。
天正18年(1590)の小田原征伐には駿府城に在番し、それらの功で24万石の甲斐国府中(甲府)城主となった。
天正20年(=文禄元年:1592)の文禄の役においては渡海、漢城に籠城するが病にかかり、帰国途次の西生浦で病死した。文禄2年(1593)8月29日、57歳。法号は剛園宗勝曹渓院。一説には石田三成に毒殺されたともいう。
竹中重治と親交が深く、光泰の娘は重治の嫡子・重門の妻となった。