永禄3年(1560)の桶狭間の合戦において、当面する最大の脅威であった今川義元を倒した織田信長は、今川氏より独立を果たした三河国の松平元康(徳川家康)と同盟を結び、東方を安泰にした。また近江国の浅井長政には妹であるお市を嫁がせ、甲斐国の武田氏へは養女を嫁がせることで友好関係を深めた。こうして後顧の憂いを断ったうえで、いよいよ美濃国の斎藤龍興との戦いに全力を傾けることとなる。
また、畿内では永禄8年(1565)に征夷大将軍・足利義輝が三好三人衆らによって弑されるという事件が起きており、義輝の弟・足利義昭が上洛の供奉を信長に求めていた。信長が上洛を果たすためには美濃国を通る、すなわち支配下に治める必要があったのである。
信長は美濃への橋頭堡として墨俣のあたりの掌握を急がせることと並行して、斎藤家中へも工作の手を伸ばしていた。斎藤家に「美濃三人衆」と呼ばれる稲葉一鉄・安藤守就・氏家卜全の3人の重臣がいたが、信長はかねてからこの3人に内応工作を進めており、永禄10年(1567)8月1日にようやく承諾を得るに至ったのである。
信長は即時に人質受け取りの使者を派遣すると同時に、三河に行くためと言って集めていた兵を美濃へと向け、稲葉山と尾根続きの瑞龍寺山を占拠した。斎藤方では信長の来攻を考えておらず、家臣たちは領国内の支城に散らばったりしていたため、不意に織田の軍勢が稲葉山城の城下を埋め尽くした状況を見て驚いたという。織田勢は城下の井口の町に放火し、たちまちのうちに稲葉山城の防衛力を削ぎ、その翌日には四方に垣を作って包囲態勢に入ったのである。
激しい戦闘ののち、8月15日に稲葉山城は落城した。斎藤龍興は一命を助けられ、伊勢国長島へと落ちていった。
信長は稲葉山城を占領したのち、町の名を井口から「岐阜」へと改めた。そしてこのときを機に、「天下布武」の印判の使用を始めるのである。
なおこの稲葉山城の陥落については諸説があり、信長より発給された文書の日付から、9月とする説もある。