松平信忠の子。松平清康の弟。通称は与十郎。蔵人佐。三木松平氏を称す。
はじめ合歓木村を領していたが、天文11年(1542)3月に弟・松平康孝が嗣子なく死去したことを受けて、その遺領の三木村を併呑し、ここを本拠として三木松平氏と称された。
天文4年(1535)12月に兄で三河国岡崎城主の清康が横死(守山崩れ)したのちに尾張国の織田信秀が三河国に侵攻してくると、弟の康孝とともに井田野に迎撃してこれを撃退した。しかし実際には織田氏の侵攻は考えにくく、岡崎に手を伸ばしてきたのは松平信定であったとする見解もある。
いずれにしても信定はまもなく岡崎城を支配下に置いて清康の嫡男・松平広忠を逐うが、信孝は康孝や広忠派の諸将らとともに広忠の復帰を画策し、天文6年(1537)6月に広忠が岡崎城に帰還を果たす原動力となった。
以後は広忠の後見役となったが、天文11年に三木領を併呑、さらには岩津領をも版図に加えて威勢を振い、その勢力も広忠に匹敵するものになったと見られる。このため広忠派の家臣から「第二の信定」となる可能性を警戒され、天文12年(1543)1月に広忠の名代として駿府へ年頭参賀に赴いた留守に所領を占拠された。この事態を受けて信孝は和解を望み、駿府の今川義元にも訴えたが、広忠家臣らの承諾を得られなかった。
このため松平氏から離反して織田信秀に通じて大岡郷の山崎城に拠り、天文16年(1547)9月末には岡崎城を攻撃するために出陣している。
翌天文17年(1548)4月にも岡崎城を攻撃しようとして出陣したが、明大寺耳取付近に布陣していたところを広忠勢に襲撃され、討死した(耳取縄手の合戦)。
『三河物語』では、信孝の首級を見た広忠は「自分に背いたわけでもなく、将来のことを疑って追い出したので、自分が無理に敵としてしまった。内膳(松平信定)が敵になったのとは大違いだ」と落涙したとすることなどからも、信孝は広忠派家臣によって松平氏から排除されたということが明らかである。