松平信忠(まつだいら・のぶただ) 1490〜1531?

安祥松平氏第3代。松平長忠(長親)の長子。幼名は竹千代。通称は次郎三郎。左京亮・越前守。
文亀3年(1503)頃に父・長忠より家督を譲られたとみられるが、長忠は健在で実権を持ち続けていたうえ、信忠の方が先に死没したために存在感は薄い。
家督相続後の信忠の評価も、『三河物語』によると「御慈悲の心もなく一門衆も割れてしまう」とあるように、一門衆(一族)との関係に支障をきたしており、芳しいものではなかった。詳細は不明であるが、所領の分配問題などにおいて悶着があったようである。
このため一門衆から排斥され、大永3年(1523)に子・清康に家督を譲っての隠居・出家を余儀なくされたようだが、完全に隠居したわけではなく、わずか13歳で家督を相続することになった清康の後見は行っていたようである。
享禄4年(1531)7月27日に隠居地の大浜で没したというが、異説もある。法号は安栖院泰孝道忠。