三河国安祥松平氏第2代。松平親忠の子。母は鈴木氏(重勝か)の娘。幼名は竹千代。通称は次郎三郎。初名を忠次、次いで長忠、さらに長親と名乗ったとされるが、「長親」名の文書は存在しない。左京亮・蔵人・出雲守。
生年には康正元年(1455)以前説と文明5年(1473)説があるが、弟で僧となった超誉存牛が文明元年(1469)の生まれとされるため、康正元年以前説が妥当と思われる。そうなると長忠は90歳以上の長寿であったことになるが、康正元年は父の親忠は18歳であり、矛盾はしない。
明応5年(1496)頃に家督を譲られたと見られるが、その頃の署名は長忠である。また、文亀元年(1501)8月10日に没した親忠の同年(ただし、この遺言状では明応10年の年号が記されている)5月25日付の遺言状には法号の道閲で記されており、父の生存中から入道していたことがわかる。
親忠の初七日にあたる文亀元年8月16日付で作成された、大樹寺を保護する旨の連判禁制(丸根家勝等連判禁制、松平一門連判状と称される)の署名者の大半が松平一族であることに対して安祥松平氏の署名がないこと、保護の対象とされている大樹寺は安祥松平氏の菩提寺であることから、この連判禁制は安祥松平氏の意向を受けて作成されたものであり、この時点において安祥松平氏の後継者である長忠の威勢は、松平一族の中でも一歩抜きんでたものであったと目される。
文亀3年(1503)頃に嫡子・松平信忠に家督を譲ったとみられているが、実権は持ち続けていたようである。
永正5年(1508)8月(『三河物語』では永正3年8月のこととする)に今川氏親の意を受けた北条早雲(伊勢新九郎)が三河国に進出して岩津城を攻めた際、岩津城救援のために出陣し、北条軍を背後から迎撃したという(井田野の合戦)。
天文13年(1544)8月22日(一説に21日)死去。法名は棹舟院殿一閑道閲。