松平親忠(まつだいら・ちかただ) 1438?〜1501

三河国松平氏第3代・松平信光の四男(史書によっては三男とも)。安祥松平氏の祖。幼名は竹千代。通称は次郎三郎。右京亮・右京大夫。号は西忠。
三河国碧海郡安祥を本領とする安祥松平氏の初代で、徳川家康の先祖にあたる。
文明7年(1475)2月に大樹寺を創建。この大樹寺は親忠の系統(いわゆる安祥松平氏)の菩提寺となった。
はじめ鴨田近辺を領していたが、年次不詳ながらも父・信光が奇策をもって奪取したとされる安祥城を文明8年(1476)頃に与えられて分立したことから、安祥松平氏と称される。
松平氏の惣領を継いだと目される長兄の松平親長、次兄の松平乗元が在京して三河国には不在だったが、明応2年(1493)10月、大樹寺南方の井田野に来襲した碧海郡の阿部、加茂郡の鈴木・中条・三宅・那須らの諸氏を撃退(井田野の合戦)したことで声望を高め、松平氏の一庶流でありながらも一族の中心的立場に立身、勢力を拡張した。この親忠の代より安祥松平氏が一族の代表格となり、加茂郡大給・滝脇、碧海郡桜井、幡豆郡矢田などに庶家を分出している。
文亀元年(1501)5月25日に一族に宛てて遺言状を認めて(ただし、この遺言状は年号が改元前の明応10年で記されている)自らの葬儀とその後の法要について定め、同年8月10日に大樹寺の寮舎である大梅軒で没した。享年64。法名は松安院殿太胤西忠。永享3年(1431)生れで享年71、永享11年(1439)生れの享年63とする説もある。