永禄6年(1563)9月、三河国で一向一揆が勃発した。碧海郡・幡豆郡・加茂郡・額田郡の4郡にわたる規模であった。この一揆では農民の門徒だけではなく武家も加担しており、反徳川家康勢力の東条城主の吉良義昭、八面城主の荒川義広、上野城主の酒井忠尚らが家康に敵対し、また、徳川家臣の中にも一揆側に立つ者も多数いたのである。のちに家康の股肱の臣となる本多正信もそうであった。
事の発端は、徳川家臣の菅沼定顕が佐崎の上宮寺から兵糧米を強制徴収したことによるという。守護不入をたてに治外法権を誇ってきた寺院側にしてみれば、この強制徴収は許しがたい行為であった。菅沼を攻めただけではなく、事態の収拾を図ろうとしていた西尾城主・酒井正親の使者をも斬ってしまったのである。
11月25日には針崎の勝鬘寺の一揆が岡崎城を攻めようとして小豆坂を出て、徳川方の軍勢と戦っている。このときの一揆方の大将格であった蜂屋半之丞という武士は家康の姿を見ると逃げ出してしまい、徳川家臣・水野忠重に向かって「主君の渡らせ給う故に逃ぐるぞ、其方の為に逃ぐる事あらん(家康様が来たから撤兵するのだ、お前たちに負けて逃げるのではない)」と言い、家康のいないところでのみ活躍したという逸話も残されている。
しかし、両者の戦いが本格化するのは永禄7年(1564)1月になってからで、1月11日、土呂・針崎の一揆8百余人が上和田の砦に攻め寄せ、そこで徳川勢の大久保一党と激戦になった。翌12日にも戦いがあり、このときは救援のため家康も駆けつけている。さらに13日にも戦いがあったという。一説に、家康は鉄砲で狙われ、危ういところを家臣の土屋忠吉が身代わりになって死んだという。それほどの激戦だった。
が、やがて一揆勢の勢いが弱まっていくにつれて家康に降伏するものが続出、2月13日に上宮寺の一揆が岡崎城に攻撃を仕掛けたのを最後に、28日頃までにはほぼ鎮定された。このとき家康は、一揆に加担した者の本領は没収しない、首謀者を殺さない、寺院や信者・僧侶は元のまま据え置く、などの条件を提示して帰順を促したという。
今川氏から独立した家康が初めて迎えた試練であったが、家康は家臣団の結束強化でこの危機を乗り越えることができたのである。
しかしこの後、家康は謀略によって一向宗寺院を破却している。