武田光和(たけだ・みつかず) 1502〜1540?

安芸国佐東銀山(金山)城主・武田元繁の嫡男。通称は彦三郎か。刑部少輔・安芸守。
大内氏から離反した父・元繁が永正14年(1517)10月の有田(中井手)の合戦で討死したことを受けて安芸国武田氏の家督を相続した。
父と同様に尼子経久と誼を通じて大内氏と戦い、大永3年(1523)閏3月には大内方勢力であった厳島神主家の内訌に介入し、庶家の友田興藤を援助して佐伯郡桜尾城に入らせている。
大永4年(1524)、大内勢が厳島対岸の大野要害を攻めた際には友田興藤とともに後詰に赴いたが、城将の大野弾正が大内氏に内応したために敗戦を喫した。続いて同年5月に大内義興義隆父子が2万5千の軍勢を率いて安芸国への侵攻を開始し、義隆・陶興房らの率いる別働隊に居城の佐東銀山城を包囲されるがよく守り、尼子氏からの援兵として駆けつけた毛利元就らが8月5日に夜襲を仕掛けて大内勢を撃退したため、落城を免れている(佐東銀山城の戦い)。
その後、毛利氏をはじめ安芸国の諸領主らがことごとく大内氏に従属し、大永7年(1527)には属城の熊野城・鳥子(鳥籠)城が大内勢力に帰するなどしたため苦境に立たされ、その後も有力家臣の熊谷信直や白井氏・阿曽沼氏などが相次いで大内方に降ったことなどから、安芸国武田氏は衰退の一途をたどった。
天文6年(1540)9月6日、佐東銀山城にて病没。享年39。天文3年(1534)3月3日に没したとする説もある。
通説では光和が嗣子がないまま没したため、尼子氏の口添えで宗家にあたる若狭国武田氏から武田元光の子・信実を迎えて当主に据えたとされるが、史料が錯綜しており、不詳であるといわざるを得ない。