佐東銀山(さとうかなやま)城の戦い

安芸国佐東郡銀山(金山)城に拠る安芸国武田氏は周防国を本拠とする大名・大内氏に従属していたが、永正12年(1515)に武田元繁が大内氏より離反して独立を果たし、以後は出雲国の尼子氏と誼を通じて所領の拡大を図っていた。その2年後の有田(中井手)の合戦で元繁が戦死したのちは嫡男の光和が家督を相続したが、変わらず尼子氏に与して勢力の伸張に意を注ぎ、大永3年(1523)閏3月には同じく尼子方勢力で厳島神主家の庶流である友田興藤を援助し、桜尾城に入城させている。
この大内方勢力の減衰に乗じた尼子経久は6月より安芸国に出陣し、大内氏の拠点となっていた鏡山城を落とす(鏡山城の戦い)などしたため安芸国をめぐる情勢は尼子方有利に傾いたが、大内氏はその直後の8月より海陸両面より進攻を開始し、勢力回復に向けて動き始めていた。

大永4年(1524)5月下旬、武田氏の後ろ盾となっていた尼子経久が伯耆国に侵攻している間隙を狙って大内義興義隆父子が2万5千の軍勢を率いて安芸国に進撃した。大内勢は厳島に本営を置き、義興の指揮する本隊は桜尾城を、義隆や大内氏重臣の陶興房らが率いる別働隊は武田光和の拠る佐東銀山城を包囲したのである。
7月、この大内氏の動きを麾下の安芸国人領主・毛利元就からの注進で知った経久は、伯耆国から取って返し、出雲・隠岐・伯耆・備後・備中国から軍勢を催して出雲国飯石郡赤穴まで出陣し、5千の軍勢を佐東銀山城の救援部隊として発向させた。
この両勢は7月10日に激突。この戦闘が大内氏の嗣子である義隆の初陣ということもあって大内陣営では士気が高揚しており、尼子勢はさんざんに打ち破られたが、尼子勢の第三陣にあった毛利元就らが8月5日の夜、折からの大雨の中をついての夜襲を敢行して勝利を得るところとなり、義隆の軍勢を押し返したのである。
しかし、桜尾城は10月10日に至って開城降伏し、その半年後には毛利元就が従属先を大内氏に転換したことにより、安芸国の形勢は大内氏に大きく傾くこととなった。