出雲国の尼子経久は月山富田城を拠点として勢力を広げ、安芸国にも影響力を浸透させつつあった。しかし、周防・長門・石見・豊前国を支配下に置く大内義興も安芸国の支配を目論んでおり、この両勢力は大永元年(1521)頃より安芸国において衝突するようになっていた。大内氏は大永2年(1522)3月より重臣・陶興房を派遣して安芸国の経略にあたらせ、対する尼子氏は佐東銀山城の武田光和や厳島神主家の庶流である友田興藤を支援することで、大内氏の攻勢を牽制していたのである。
陶興房は賀茂郡西条の鏡山城を安芸国経略の前線拠点としていたが、本国より召還を受けたため蔵田房信を守将に残して帰国。これを見た友田興藤は大永3年(1523)閏3月、武田光和の援助を得て神領郡内から大内勢を駆逐し、桜尾城に拠って神主となって自立を果たした。
これを好機と捉えた尼子経久は鏡山城の攻略に乗り出し、6月上旬に自らは高田郡北池田に布陣するとともに、麾下に属していた高田郡郡山城の毛利幸松丸に出陣を要求した。
毛利氏はこれを容れ、幸松丸と供に毛利元就が相伴して出陣するところとなったのである。
毛利勢は吉川国経ら4千余の軍勢で鏡山城麓の満願寺に布陣し、6月13日より攻撃にかかる。また、経久率いる尼子本隊も下見峠に進出して攻撃したが、鏡山城の守備は堅く、容易に落ちる気配もなかったのである。
そこで元就は、本丸を守っていた房信の叔父・蔵田日向守に本領安堵と家名存続を条件として寝返りを誘ったのである。これに日向守が応じると、27日に至って総攻撃を敢行。二の丸を死守していた房信は内外からの攻撃を受けてついには自刃、28日に鏡山城は陥落した。
経久はこの元就の軍功を高く評価したが、寝返った蔵田日向守の行動を「不義の至り」として切腹を命じた。
また、この帰陣直後より毛利幸松丸は病に罹ったといい、7月15日に9歳の若さで夭折している。