門司(もじ)合戦

かつて北九州にまで威勢を及ぼした中国地方の大大名・大内氏は、弘治3年(1557)4月に毛利元就によって滅ぼされた(且山城の戦い)。
大内氏の最後の当主となった大内義長は豊後・筑後・肥後国の守護を兼ねる大友宗麟の実弟であったが、宗麟は最後まで義長に助勢することはなかった。これは、毛利氏が大内氏を攻めるにあたって数多の水軍で海上を封鎖して大内・大友の連携を未然に分断したこともあるが、本州の大内旧領は毛利、九州の大内旧領は大友が制圧することを黙認しあう、という密約ができていたためともいう。
大内氏の滅亡後、その旧領は前述の如く毛利氏と大友氏の版図に加えられたが、とくに秋月・筑紫氏など筑前国の国人領主らは大友氏への従属を好まず、毛利氏と通じた。
これを受けた毛利氏は北九州の反大友勢力の支援に乗り出すが、その橋頭堡となったのが豊前国の門司城であった。また一方の大友氏にとっても、門司は関門海峡を扼す要衝であることから領国の安定維持に必須の地であり、この門司をめぐって数次に亘る争奪戦が繰り広げられることになったのである。

永禄4年(1561)9月頃、大友氏は毛利勢が固守する門司城を奪取するため、1万5千ほどの軍勢を小倉に集結させつつあった。
この報を得た元就は、子の毛利隆元小早川隆景兄弟に門司城への後詰を命じた。隆元は8千の軍勢を率いて周防国よりの陸路で、隆景は5百隻(約1万人)の水軍で門司へと向かう。
門司城の攻防戦は10月より激化するが、大友勢は水軍の機動力を生かした毛利勢の防衛網を打破することができず、戦況は守る毛利勢が優勢のまま推移した。大友勢も国東半島の浦部・岐部などの水軍を有していたが、既に毛利水軍によって制海権を握られてしまっていたため、海上からの輸送や攻撃を封じられてしまっていたのである。
この劣勢を覆せぬまま、大友勢は門司城の攻略を断念して11月4日の夜より撤退を開始するが、毛利勢もこの機を逃さず追撃に取り掛かる。大友勢は南の苅田方面へ向けて軍勢を返そうとしたが、毛利水軍が先回りしてこれを扼したため前後に挟撃を受けることとなったばかりか、前線の拠点としていた苅田松山城を放棄せざるを得ないという大敗を喫したのである。
この後、苅田松山城には天野隆重が守将として置かれ、毛利氏の豊前国北域における防備は更に固められることとなった。