かつて尼子氏の勢力圏であった安芸・備後両国の北部は、尼子氏と断交して大内義隆に与した安芸国の国人領主・毛利元就の台頭によって蚕食されつつあった。このため尼子氏当主・尼子晴久は毛利氏を粉砕すべく、その本城である安芸国吉田郡山城の攻撃を企図したのである。
晴久は尼子国久に郡山城攻撃の先遣を命じ、これを受けた国久は天文9年(1540)6月下旬、新宮党3千の軍勢を率いて進発した。
尼子勢は三刀屋・頓原・赤穴(赤名)を経て尼子勢力であった三吉隆信の領す備後国三次に至り、その属城で中村慶久が守る志和地八幡山城に集結。ここから可愛川(江の川)を渡って郡山城を襲撃する計画であった。
この尼子勢の動きを知った元就は、娘婿で甲立五龍城の宍戸隆家とその祖父・宍戸元源に協力を求め、元源の弟・深瀬隆兼が守り、八幡山城から南西4キロほどに位置する祝山(岩屋)城にて防戦することを定めたのである。隆兼は祝山城の防備を更に固めると共に、祝山城前面の犬飼平に兵を伏せ置いて尼子勢の攻撃に備えた。
犬飼平を通過した尼子勢は可愛川の岸伝いに祝山城麓の石見堂の渡り口に進んだが、隆兼は対岸からこれを防いで渡河させず、川を挟んで両軍が対峙することとなった。ここに五龍城から元源らが駆けつけて救援すると共に、犬飼平の伏兵も起こって攻撃に移ったのである。このため尼子勢は挟撃を受けて打ち破られ、敗兵を集めて八幡山城に退却した。
帰国した国久らが備後路からの侵攻は困難であることを晴久に進言したため、2ヶ月後の郡山城攻め(郡山城の戦い)は石見路を取ることとなった。