畠山稙長(はたけやま・たねなが) 1504〜1545

河内南半国守護・畠山尚順の嫡男。名を稙家とも。右衛門佐・尾張守。河内南半国・紀伊守護。
永正8年(1511)(一説には永正14年:1517)に父・尚順より家督を譲られ、河内国高屋城主となる。
畠山氏は稙長の祖父・畠山政長とその従兄弟・畠山義就が惣領の地位を争ってより分裂し、これが応仁の乱の発端のひとつとなり、稙長の父・尚順の代に至って政長の系統が河内南半国を、義就の系統が河内北半国を領有することで落着していたが、永正4年(1507)より細川澄元細川高国による細川京兆家(管領家)の家督争いが激化し、これと連動して畠山氏においても対立が再燃すると、稙長は高国と結んで澄元陣営の河内北半国守護・畠山義英(義就の孫)と戦った。
永正17年(1520)2月に高国を追い落とした澄元勢が威勢を強めると義英に高屋城を奪われ、同年5月の等持寺表の合戦で勝利した高国が畿内を制圧すると稙長が高屋城に復帰するなど一進一退の攻防が続けられたが、大永元年(1521)には義英と和議が結ばれ、大永3年(1523)には河内国の南半を稙長が、北半を義英の子・義堯が支配することとなった。
大永6年(1526)2月、高国によって擁立されていた将軍・足利義晴の相伴衆となる。
しかし大永7年(1527)2月の桂川の合戦で高国が澄元の子・晴元に敗れて京を逐われると、これを好機として兵を挙げた義堯に享禄元年(1528)に高屋城を攻め落とされた。
その後の動向は不詳であるが、義堯が家臣で河内北半国の守護代・木沢長政に討たれた享禄5年(=天文元年:1532)6月以降に高屋城に復帰したと推測される。
しかし天文3年(1534)、守護代の木沢長政や遊佐長教らが稙長の弟・長経を河内一国の守護に擁立したため、紀伊国に出奔した。
この後に長経が義堯の弟・畠山在氏と和睦し、天文7年(1538)に在氏に北半国、弟の政国に南半国を譲って半国守護制度を復活させたためか、天文10年(1541)8月に遊佐長教らに殺されると、稙長は長教に擁立されて高屋城に迎えられ、天文11年(1542)3月に河内守護に再補任された。
天文14年(1545)5月15日に死去。42歳。法名は大和寺殿覚源悟公。