畠山義堯(はたけやま・よしたか) ?〜1532

河内北半国守護・畠山義英の嫡男。別名は義宣。通称は太郎か。上総介・右衛門督。
この義堯を父・義英と同一人物とする説がある。
畠山氏は15世紀半ば頃より畠山政長に連なる家系と畠山義就の後裔で惣領の座をめぐる内訌が続けられており、対立と和睦を繰り返してきた。
義就の孫にあたる義英は、政長の子孫である畠山尚順稙長父子との抗争に敗れて紀伊国に逃れたが、大永元年(1521)に和睦した。その後の行動は不詳であり、代わって義堯の名が見られるようになることが同一人物説の所以であろう。
大永3年(1523)に河内北半国守護に補任される。
大永7年(1527)2月に三好元長足利義維細川晴元を擁して畿内に侵攻、桂川の合戦細川高国足利義晴を逐って和泉国堺に暫定新政権(いわゆる堺幕府)を樹立するとこれに属し、河内南半国守護・畠山稙長の拠る高屋城を攻めて陥落させた。11月には、義晴の要請を容れて侵攻してきた朝倉宗滴と戦っている(東山の合戦)。
享禄4年(1531)頃に家臣・木沢長政と不和になり、翌享禄5年(=天文元年:1532)5月になると元長の支援を受けて長政の居城・河内国飯盛城を攻囲した。はじめ義堯・元長方が優勢であったが、窮した長政が細川晴元を通じて本願寺法主・証如の檄による一向一揆勢力を味方につけると形勢を逆転され、高屋城を目指して敗走したが捕えられ、6月17日に自刃した(飯盛城の戦い)。