越前国の大名・朝倉氏の一族。朝倉敏景の末子。通称は小太郎・太郎左衛門尉。名は教景、入道して照葉宗滴と名乗った。
朝倉貞景・孝景(宗淳)・義景の3代に亘って仕え、一族の重鎮として各地に転戦、数々の武勲を挙げて朝倉氏の領国経営に多大な貢献を残した名将。敦賀郡司・朝倉景冬の娘を妻とした。
文明16年(1484)7月、朝倉光玖の猶子となっていた兄・教景(以千宗勝)が庶兄・景総(元景)に殺害された事件ののち景総は越前国を出奔して細川政元に仕えていたが、女婿である敦賀城主・朝倉景豊(景冬の子)と結んで文亀3年(1503)に宗家の朝倉貞景に叛いた。景豊は義兄にあたるが宗滴はこれを貞景に告げ、景豊を自害させた功によって敦賀郡司となる。
景総は加賀国に逃れ、翌永正元年(1504)9月に再び侵攻を試みたが宗滴はこれを迎え撃ち、敗退させた。
永正3年(1506)には越前国の一向一揆を鎮圧し、同年7月には加賀国・能登国の一向一揆が加賀国より侵攻してきたのを九頭龍川で迎え撃って大勝した(九頭龍川の合戦)。
貞景の没後はその後継・孝景の後見となり、よく補佐した。
永正14年(1517)には丹後国に出陣して若狭守護の武田氏を援けて丹後守護代・延永氏の庫橋城を攻め取った。大永5年(1525)には近江国小谷城へ出陣しており、通説ではこの出陣は六角定頼に攻められた浅井亮政を援けるためということになっているが、近年の研究では六角氏を支援してのことだったと目されている。
大永7年(1527)10月には足利義晴・細川高国を援けるため朝倉勢の総大将として京都に出陣し、11月の川勝寺口の合戦で細川晴元勢と戦って勝利した。
享禄4年(1531)8月下旬、同年閏5月に勃発した加賀一向一揆の分裂抗争(大小一揆の乱)に乗じて養子・朝倉景紀らと共に小一揆を支援して加賀国へと出陣、10月には湊川(手取川)を越えて石川郡で大一揆勢と戦って破ったが、加賀・越中方面の戦線で小一揆勢が敗れたことを知ると撤退した。
天文13年(1544)には美濃国に出陣、斎藤氏を援けて織田信秀を破った。
天文24年(=弘治元年:1555)7月、長年の懸念であった加賀一向一揆を鎮定するために加賀国に出陣、大聖寺(津葉)・南郷・千束(千足)などの拠点を圧して、反撃してきた一揆勢数千を討死させる(大聖寺表の合戦)など、各地で一向一揆を攻めたが陣中で病んだため一乗谷に帰還し、9月8日に没した。79歳。法名は月光院殿照葉宗滴大居士。生年を文明6年(1474)、享年82歳とする説もある。
宗滴は「軍奉行」に徹し、軍事面で主家の発展に大きく貢献した武将であるが、その宗滴の遺訓ともいえる『朝倉宗滴話記』は宗滴の生涯12度に及ぶ合戦経験の話を側近の荻原某が聞いて記したものといわれ、戦国武将としての教訓の数々や、「武者は犬とも畜生とも言われようとも、勝つ事こそが肝要である」といった合理的な考え方が記されている。