大小一揆(だいしょういっき)の乱

長享2年(1488)6月に加賀守護・富樫政親を滅ぼして(高尾城の戦い)一国の国務を握った加賀国の一向一揆の勢いは周辺の能登・越中・越前国などにも伝播したが、永正3年(1506)夏には越前国の朝倉氏と戦って敗れ(九頭龍川の合戦)、越前国の一向宗寺院であった和田本覚寺・藤島超勝寺は加賀国へと追放された。
当時の加賀国は一揆の合議によって統治されており、その首脳層は『三山の大坊主』と称される河北郡若松の本泉寺・能美郡波佐谷の松岡寺・江沼郡山田の光教寺の3ヶ寺であったが、ここに越前国からの本覚寺・超勝寺が入ってきたことで不協和音が生じる。3ヶ寺の住職はいずれも8世法主・蓮如の子で、9世法主・実如の方針に従って戦線の拡大を望まない現状維持派であるのに対し、本覚寺・超勝寺は享禄2年(1529)に加賀国へ下向した本願寺家老の下間頼秀・頼盛兄弟と結んで越前国への復帰と勢力拡大を熱望したためである。
この前者は小一揆、後者は大一揆と称され、両者は主導権をめぐって対立し、享禄4年(1531)閏5月に武力闘争となったのである。
松岡寺などを焼き討ちされて劣勢に立たされた小一揆は朝倉氏に支援を求め、朝倉氏も本覚寺・超勝寺が越前国へ立ち戻ることを望まなかったことから加賀国への派兵を決め、8月に朝倉宗滴朝倉景紀・堀江景忠らが8千余の軍勢を率いて出陣。また能登・越中国方面からも小一揆の求めに応じた援軍が加賀国へと侵攻した。
朝倉勢は10月26日に手取川を渡河して大一揆勢を敗走させるも、北方戦線では能登・越中勢が敗れ、これを知った朝倉勢が浮き足立って11月7日に撤退したため、大一揆の勝利となった。
この争乱によって3ヶ寺は没落し、一揆の強硬派による加賀国の支配体制は安定度を増すことになったのである。
この内訌を「享禄の錯乱」とも呼ぶ。