(本願寺)蓮如(ほんがんじ・れんにょ) 1415〜1499

浄土真宗本願寺第8世法主。第7世・存如の子。母は存如の正妻ではなく「いずこの人なるを知らず」とされており、身分のある女性ではなかったという。
応永22年(1415)2月25日に生まれる。幼名を布袋丸、諱は兼寿。
蓮如の青年時代、真宗高田派や仏光寺派が繁栄していたのに比べ、本願寺は衰微していた。しかも妻との間には次々と子が生まれたので、その生活は困窮を極めたという。
そんな環境の中で勉学に励み、長禄元年(1457)、父・存如が没した跡を継いで本願寺住職となった。このとき蓮如の継母・如円尼は実子で蓮如の異母弟である蓮照(応玄)を住職にしようとし、一門もそれに賛成したが、急ぎ北陸から駆けつけた叔父・如乗の努力によって蓮如が後継者となることができたのである。
本願寺の発展に向けて乗り出した蓮如は、本尊や名号の下付と、信徒の目線に立って教えを易しく説いた手紙(御文・御文章などと呼ばれる)を与えることによって信者を増加させた。とくに農村に布教するために「まず法義になしたきものは、坊主と年寄と長(おとな)」と考えた。農村の通仏教的な念仏信仰を吸収し、村落の指導者である3者を掴めば本願寺の発展があることを確信していたのである。
こうしてまず近江国の門徒を掌握したが、この地に勢力を有する比叡山延暦寺を刺激してしまったために寛正6年(1465)1月、京都東山大谷にあった本願寺の堂社が延暦寺宗徒の襲撃を受けた。このときは門弟らの奔走により、西塔院の末寺として毎年礼銭を納めることで落着したが、3月に再び襲撃を受けて全て破却された。しかしこれを契機として、近畿地方を転々と遍歴しながら捨て身で布教に励んだのである。
また、農民や職人層を中心に教義を浸透させ、それまでの近江国から河内国にわたって着実に基盤を固めた。
文明3年(1471)には越前国と加賀国の境の要地である吉崎に進出、北陸地方にもその勢力を広げた。
蓮如の教義を受けた者たちは自然と連帯し、その無数の小さな連合体が結びつき、信仰を媒体とした巨大な共同体と化していくことになるのである。
その求心力を危険視された蓮如は文明7年(1475)8月、加賀守護・富樫政親に逐われて吉崎を去り、河内国・摂津国・紀伊国方面に活動の重点を移した。
蓮如の去ったのちの長享元年(1487)に加賀国の門徒は一向一揆を起こし、翌年6月には20万ともいわれる勢力で高尾城に富樫政親を滅ぼした(高尾城の戦い)。これにより加賀国はこの後約100年に亘って共和国体制の「百姓のもちたる国」となるのである。
文明11年(1479)には京都山科に新しい本願寺が完成し、明応6年(1497)には摂津国石山に別院を建設している。(これがのちの石山本願寺となった。)
延徳元年(1489)、寺務を五男の実如に譲って隠退した。
その生涯に5人の妻を迎え、13男14女、27人もの子女が各地に配され、蓮如を助けた。
本願寺を大教団に育てた蓮如は、明応8年(1499)3月25日、85歳で死去した。墓所は京都東山区。諡は慧灯大師。