九頭龍川(くずりゅうがわ)の合戦

長享2年(1488)6月の高尾城の戦いののち、加賀国は本願寺の門徒(一向一揆)の領国と化し、その影響は越中国の西部および南部、そして越前国にも広がりつつあった。しだいに越前国の武家勢力・朝倉氏との関係は悪化、衝突の様相を漂わせていた。

そして永正3年(1506)3月16日、加賀国本泉寺の僧・蓮悟(蓮如の子)の檄により加賀・越中・越前国の門徒衆が決起、その数は30万とも言われるほどの膨大な勢力となった。対する朝倉氏当主・貞景には単独でそれに対抗しうる兵力を持てず、本願寺と対立関係にあった高田派や三門徒派の勢力を味方につけることによって、ようやく2万ほどの勢力を作り上げることができたのである。
7月17日、一揆勢が越前国に侵攻、九頭龍川畔の中角・鳴鹿・中の郷に押し寄せ、放火や略奪行為に走った。
8月2日、朝倉勢は貞景の弟・教景(宗滴)を総大将に斎藤民部、朝倉景職ら数千の精兵で九頭龍川対岸に布陣し、中角の渡し付近で迎え撃った。一揆勢には土豪や、もとは名のある武士であった浪人も多数加わっており、彼らが直接に戦闘を指揮したため両軍入り乱れての激戦となり、その日のうちには決着がつかなかったが、人数では圧倒的に劣る朝倉勢が互角以上の奮戦ぶりを見せたのである。
そして8月6日、朝倉勢が九頭龍川を強行渡河、一揆勢に襲いかかった。川の流れが急で、朝倉勢が渡河して攻めかかってくるとは思っていなかった一揆勢は不意を衝かれた格好となり浮き足立ち、ついには総崩れとなって加賀へと敗走した。朝倉勢は返す刀で一揆勢の本拠地である吉崎御坊をはじめその末寺に至るまで攻め立て、一揆勢を駆逐することに成功した。