朝倉貞景(あさくら・さだかげ) 1473〜1512

越前国朝倉氏第9代当主。文明5年(1473)2月5日、朝倉氏景の嫡子として生まれる。通称は孫次郎。弾正左衛門尉と称す。越前守護。
文明18年(1486)7月の父・氏景の死後に家督と越前守護職を相続した。
長享元年(1487)10月、9代将軍・足利義尚による近江守護・六角高頼の討伐(鈎の陣)に出陣したが、同じく参陣した斯波義寛と越前国の支配権をめぐって相論となる。しかし朝倉氏が貞景の祖父である敏景の代より実質的に越前国の統治を行ってきた事実を認められ、この相論は12月に至って一応の落着を見るが、義尚の陣没を受けて10代将軍となった足利義稙が延徳3年(1491)8月に近江国への再親征を企てるに際し、再び斯波氏との相論がもちあがったが、今度は延徳4年(1492)4月頃には立ち消えとなっている。
長享2年(1488)に隣国・加賀国の守護である富樫政親が一向一揆に攻められた際、幕府の命を受けて援軍を出陣させるも富樫氏の救援は成らず(高尾城の戦い)、のちには加賀国を領国化した一向一揆との抗争を繰り返すようになる。
延徳3年4月、美濃守護代・斎藤利国(妙純)の娘を妻に迎えた。この縁戚関係から明応4年(1495)に美濃国で勃発した土岐氏の内訌(船田合戦)においては斎藤利国方に与し、翌年5月の城田寺の戦いには軍勢を派遣して利国を支援している。
文亀3年(1503)4月、叔父・朝倉宗滴の注進を受けて敦賀郡司・朝倉景豊が謀叛を企てていることを知ると、直ちに自ら軍勢を率いて敦賀城を攻めて景豊を自害させ、その後任には宗滴を就けた。また翌永正元年(1504)8月には景豊と結んで謀叛を目論んでいた、景豊の岳父で貞景には叔父にあたる朝倉景総(元景)を越前国長崎に破るなど、家中における反抗勢力の一掃に成功している。
永正3年(1506)、加賀国の一向一揆が大規模な侵攻を企てた際には朝倉宗滴を派遣してこれを迎撃して破り(九頭龍川の合戦)、これを契機に国内の一向一揆を弾圧するなど、朝倉氏による越前国の支配体制を堅固なものとした。
永正9年(1512)3月25日、鷹狩りへ行く途中に急死した。40歳。法名は長陽院殿天沢宗清大居士。