朝倉敏景(あさくら・としかげ) 1428〜1481

越前国朝倉氏第7代。朝倉家景(教景:固山良堅)の嫡子。応永35年(=正長元年:1428)4月19日に生まれた。通称は小太郎。孫右衛門尉・弾正左衛門尉と称す。初名は教景。のちに敏景・孝景と名乗る。
宝徳2年(1450)12月の父の死を受けて家督を相続し、祖父・教景(心月宗覚)の後見を受ける。
朝倉氏は有力守護大名・斯波氏の重臣であり、享徳元年(1452)に斯波氏武衛家(斯波氏本家)の当主・義健が没した際には守護代・甲斐将久(常治)らとともに斯波氏庶流から義敏を迎えるために奔走した。『敏景』の名乗りは、この義敏から一字を拝領したものと見られる。
この後、領国支配の実権をめぐって義敏と将久が対立し、長禄合戦と呼ばれる内乱にまで発展するが、将軍・足利義政の命に応じて将久を支援して義敏と敵対し、長禄2年(1458)11月から翌長禄3年(1459)5月までの間に21回にも及ぶ合戦を戦い抜いた。とくに長禄3年8月の和田の合戦では果敢な奮戦により、義敏方の軍勢を退けた。この間の長禄3年2月、義敏の諱『敏』の字を嫌い、名をもとの教景に戻している。
また、この長禄合戦においては、義敏方に与した朝倉庶流の朝倉将景らを討つなど同族内の反敏景派勢力を掃討し、当主としての地歩を確立させるとともに、義敏に与した堀江氏の知行していた河口・坪江の地を得て所領を拡大した。
長禄3年5月に義敏が解職されたのちは義敏の嫡子・松王丸(のちの斯波義寛)が斯波氏当主となったが、敏景は松王丸を更迭するとともに斯波義廉を擁立して当主の座に就け、領国経営の実権を掌握した。その権勢は、主家・斯波氏を凌ぐほどのものであったという。
寛正3年(1462)頃、名を孝景と改める。
文正2年(=応仁元年:1467)の応仁の乱においては斯波義廉が与する西軍に属し、畿内で東軍の京極持清や武田信賢と戦って戦功を挙げ、武名を大いに高めた。その一方、越前国では斯波義敏が東軍勢力として侵攻を進めていたため、応仁2年(1468)閏10月に越前に入国して対抗した。
しかし文明3年(1471)6月に至って「(東軍に帰属するのならば)越前守護にしてもよい」という密約を容れて東軍の総大将・細川勝元に応じ、足利義政の御内緒を得たことによって越前国の支配権を公認された。この敏景を東軍に帰属させる工作は応仁2年9月には始まっており、同年閏10月の敏景帰国も、この内応を見据えてのものであった可能性もある。
こうして名分を得た敏景は越前国の平定に乗り出すが、当面の敵は長禄合戦において余同していた甲斐氏の勢力であった。甲斐氏は朝倉氏より大きな支配基盤を有していたが、朝倉勢は果敢に侵攻し、文明3年8月の新庄・鯖江の合戦を経て文明4年(1472)8月には守護所のある府中を制圧、越前国の中央部から甲斐勢力を駆逐することに成功した。しかし甲斐方の抵抗は終わらず、加賀国方面から越前国北部、近江国方面から越前国南部に侵攻しては朝倉氏の本拠・一乗谷を目指した。文明5年(1473)8月の日山(樋山)・蓮浦の合戦、文明6年(1474)1月の杣山の合戦、5月の殿下・桶田の合戦、閏5月の波着寺・岡保の合戦などがそうである。これらの戦いは、大軍を擁して侵攻する甲斐勢に苦戦しながらも激戦を制している。
文明7年(1475)の暮れ頃には大野郡に拠る二宮氏を放逐したことで越前一国の平定をほぼ成し遂げ、名実共に越前守護にのし上がった。
しかし文明11年(1479)秋には甲斐氏・二宮氏と連合した斯波義寛の侵攻を受けた。この戦いでは2年近くに亘って一進一退の激しい攻防が繰り返されたが、その攻防戦の最中の文明13年(1481)7月26日に病死した。享年54。法名は一乗寺殿英林宗雄居士。因みに、法名の「英林」は一休宗純に授けられたものである。
敏景は北条早雲斎藤道三らと同様に戦国大名の先駆けともいうべき存在であり、拠地の一乗谷に家臣を集めるという当時としては画期的な中央集権制を布いたのも敏景が初めてである。後年、織田信長などもこの政策を倣っている。
また、徹底した合理主義者であり、「合戦に際しては(吉兆のために)吉日や方角を選んだりして、いたずらに時を空費してはならない」「家老は家柄ではなく、その者の器量(能力)や忠節をもって選ぶべきだ」など、当時に重んじられていた風潮や迷信を大胆に切り捨てた。敏景の遺した『朝倉敏景十七箇条(別称:朝倉孝景条々)』からもそれが窺える。
自身は迷信打破につとめているが、当時の宗教界の新興勢力・(本願寺)蓮如と誼を結び、越前国吉崎に寺地を寄進するなどして接近を図るといった、現実を見据えた柔軟さも併せ持つ武将であった。