朝倉氏景(あさくら・うじかげ) 1449〜1486

文安6年(=宝徳元年:1449)4月5日、朝倉敏景(別称を教景:英林宗雄・孝景とも)の長子として生れた。幼名は阿君(くまきみ)、通称は孫次郎。孫右衛門尉。
朝倉氏の文書では「幼少より器量・体格に優れて逞しく、智謀は無双」とされる。
応仁の乱においては父・敏景とともに斯波義廉に属し、西軍に与した。応仁2年(1468)閏10月の敏景の越前帰国後も畿内に駐留していたが、敏景の東軍内応と時を同じくする文明3年(1471)6月8日の夜に東軍陣営に入り、23日には越前国に下った。以後は朝倉一門の有力武将として敏景の越前平定戦を援け、とくに文明3年8月の新庄・鯖江の合戦、文明6年(1474)5月の殿下・桶田の合戦などで大きな戦功を挙げている。
文明13年(1481)7月に敏景が病没したときは斯波義寛や甲斐氏による執拗な侵攻を受けていたが、敏景の後継者として一族の協力を得て抗戦し、劣勢を挽回して斯波・甲斐勢力を駆逐して越前国の統一を完成させた。
この年の10月には美濃国の斎藤妙純(利国)の調停によって、かつての主筋にあたる斯波義廉の子息と名目的な主従関係を結んでいることから越前守護の地位には就任していないと思われるが、翌11月には室町幕府に代替わりの御礼を行っており、実質的な越前国主を継承したことを内外に示したものと見られる。
文明18年(1486)7月4日に死去。享年38。法名は子春宗孝大居士。