大聖寺表(だいしょうじおもて)の合戦

越前国の朝倉氏は永正3年(1506)8月の九頭龍川の合戦での勝利によって加賀国の一向一揆の脅威を水際で食い止め、これに曝されることなく領国経営を推進していた。しかし享禄4年(1531)に加賀一向一揆の内部で分裂抗争(大小一揆の乱)が起こると、朝倉氏は戦線拡大を望まない「現状維持派」の小一揆を支援して介入するも、小一揆が敗れて大一揆による加賀国の支配体制がさらに安定すると、加賀・越前国境を厳しく閉鎖して加賀一揆の侵攻を防いでいた。
しかし大一揆の中心となっていた藤島超勝寺・和田本覚寺の門徒らはしばしば越前国への侵攻を図って小競り合いが引き起こされており、年月を経るにつれて勢力を北陸地方一帯に拡大されていく一向一揆の勢力はさらに大きな脅威となりつつあった。
こうした状況を苦々しく感じていた朝倉宗滴(教景)は、一向一揆と雌雄を決することを朝倉氏当主の義景に申し出て了解を得たのである。

天文24年(=弘治元年:1555)7月21日、1万1千余の軍勢を率いて一乗谷を出立した宗滴は、22日に加賀・越前国境付近の細呂宜(細呂木)に野陣を張り、翌23日には加賀国に侵入して橘山に陣を置いた。一方の一揆軍もこの朝倉軍の進撃を察知し、南郷・千束・大聖寺(津葉)にそれぞれ3千ほどの人数を入れて防備を固めていた。
戦端はその日の午後には開かれた。宗滴は軍勢を3手に分けてそれぞれの拠点への攻撃を命じて向かわせたのである。
大聖寺の地は当時は津葉と呼ばれており、朝倉景連の軍勢が攻め落とした。南郷は黒瀬掃部允が守将として籠もっていたが、これは宗滴の指揮する軍勢の猛攻により陥落、黒瀬は山中方面へと逃亡した。千束には潟山津(片山津)大助・振橋帯刀らが拠っていたが、朝倉方の福岡吉澄隊に攻められて崩れ、潟山津・振橋らは動橋(いぶりばし)・高塚方面へと退却した。いずれの一揆方拠点もその日のうちに陥落し、朝倉方は大勝を得たのである。
宗滴はその翌日あるいは翌々日に本陣をさらに進めて敷地山に置き、その周辺の菅生・荻生などにも諸将を配して備えを固めていたが、はたして態勢を調えた一揆勢は本願寺の先代法主・証如の忌日である8月13日に襲来したのである。
一揆軍は3手に分かれ、河北郡の門徒が菅生へ、和田本覚寺を中心とする石川郡の門徒は朝倉本陣の敷地山へ向かい、藤島超勝寺の実賢を大将とする能美郡の門徒は朝倉本陣を側面から衝くため、大聖寺の北方に位置する高尾山へとそれぞれ進んだ。
これを迎え撃つ朝倉勢は陽動・伏兵・挟撃といった戦術を駆使して一揆軍を攻めたて、数千ともいわれるほどの門徒を討ち取って壊滅的な打撃を与え、大勝利を収めたのである。
しかし同月15日、老齢であった宗滴はにわかに発病して陣中に倒れ、帰国を余儀なくされる。そして9月8日、一乗谷で無念の死を遂げたのであった。

その後の朝倉軍の指揮は朝倉景高・景隆・景健らが執ることとなり、攻勢を続ける一方で将軍・足利義輝の斡旋で進められた和平工作を受け、弘治2年(1556)4月下旬には朝倉軍は開陣して加賀国より撤兵した。