阿波国細川氏の重臣であった三好長慶は、主君で幕府管領の地位に在った細川晴元をよく補佐して援けたが、三好一族、そして細川一族の内訌に際して対立するに至り、ついには晴元の政敵であった細川氏綱を擁立して天文18年(1549)6月の江口の合戦で晴元を逐い、畿内随一の実力者であることを知らしめた。
このとき将軍家の足利義晴・義輝父子も晴元らとともに近江国坂本に退避したが、翌年に京都復帰を目論んだが敗れて近江国に退き(中尾城の戦い)、天文21年(1551)1月に和議を結んで帰京したが融和するには至らず、天文22年(1553)には晴元と結んで決起するも、鎮圧されて再び近江国へと逃れた(霊山城の戦い)。
永禄元年(1558)5月3日、足利義輝と細川晴元は京都奪回を画策して近江国坂本まで進んだ。
これを探知した三好方は東寺を本陣に据えて防備を固め、19日には三好長逸・松永久秀らが率いる1万5千ともいわれる大軍が京都市中を巡察しているが、言うまでもなく将軍方を東山の一線から洛中へ入れないための三好方の示威行動であり、洛中からの離反者を出さない狙いもあった。
それでも5月半ばには将軍方の先兵が瓜生山(勝軍地蔵山)周辺に出没しており、将軍方の進攻必至と見た三好方では、6月2日に三好長逸の軍勢が先手を打って瓜生山に陣を構えて備えた。
しかし将軍方は近江守護・六角義賢の支援を得て、6月4日に5千の軍勢で如意ヶ嶽(大文字山山頂)に布陣したのである。瓜生山は洛中を見下ろすことのできる要地ではあったが、如意ヶ嶽はその瓜生山よりも高く、瓜生山を監視することができる地であった。
如意ヶ嶽を占拠したことで戦略的優位に立った将軍方は洛中に向けて進み、白川口の鹿ヶ谷や浄土寺辺で三好勢との遭遇戦になった。この戦闘は大規模なものとはならなかったようだが、北白川から黒谷一帯の郷村は焼き払われたという。
しかし瓜生山の三好勢の内部では如意ヶ嶽を取られたことで動揺が走り、7日には孤立を恐れて瓜生山を捨てて東寺へと退却した。すると今度は将軍方の軍勢がここを奪取したが、しかしそのために如意ヶ嶽の防備が手薄となり、翌8日にはそこを狙って三好長逸・松永らが軍勢を進め、如意ヶ嶽を占拠したのである。
9日には如意ヶ嶽西方の賀茂河原辺で合戦となったが、三好方が押し返したようで、将軍方は瓜生山に陣屋を構えて守勢に転じ、持久戦の様相となったのである。
この抗争は概して三好方が優勢だったが、それ以上の深追いはしておらず、7月には六角義賢の斡旋で講和交渉が進んでいたようである。
9月には長慶の弟である三好義賢(実休)・安宅冬康・十河一存が和泉国の堺に参集しており、4人の兄弟に長慶嫡子の三好義興をも交えて将軍方との和議の可否を協議したものと見え、11月に入ると和議が成立して義輝の帰京が決定した。
劣勢でもなく、兵力の増強も可能であった三好方が敗戦に近いかたちでの和議に応じた理由は不詳であるが、これまでに悩まされ続けた細川晴元に連なる者たちの蜂起などの厭世観から、将軍の権威を生かした方が得策と考えたからかも知れない。