筒井順慶(つつい・じゅんけい) 1549〜1584

筒井順昭の子。天文18年(1549)3月3日に生まれる。幼名は藤勝丸。初名は藤政。
天文19年(1550)、父の死によりわずか2歳で家督を継いだが、永禄3年(1560)、松永久秀に筒井城を逐われて堺などに寓居した。
筒井氏は大和国奈良興福寺の官符衆徒、すなわち僧兵の隊長格の家柄で、彼も永禄9年(1566)9月、17歳で得度して陽舜房順慶と名乗った。この後に大和国衆を糾合、三好三人衆とも結んで久秀と戦い、永禄10年(1567)10月には久秀を多聞山城に追い込めた。大仏殿が焼失したのはこのときのことで、三好三人衆が陣取った大仏殿に夜討ちをかけられ、この兵火で炎上したという(東大寺の戦い)。
その後も久秀との攻防を繰り返したが天正4年(1576)5月、明智光秀の援助で久秀の失脚後に織田信長から大和守護に起用され、翌5年(1577)3月には本貫地である筒井城を回復。10月には織田信忠に従い、宿敵である久秀を信貴山城に攻めて滅ぼした(信貴山城の戦い)。
天正8年(1580)には郡山に城を構え、名実ともに大和一国を支配するに至る。
天正10年(1582)の本能寺の変後、かねてから配置してあった伊賀衆の諜報網により、羽柴秀吉の『中国大返し』の情報をいち早く得た順慶は、光秀に誘われたが郡山城にあって動かず、家臣を洞ヶ峠に派遣して情勢を観望させた。そして山崎の合戦の帰趨が明らかとなった後に秀吉の陣所に参陣、秘宝の井戸茶碗を贈って遅参を詫び、その家臣となった。
一般に流布されている話は、明智光秀と羽柴秀吉が戦った山崎の合戦において、自身は洞ヶ峠にのぼって明智勢と羽柴勢の戦いを傍観していて、羽柴勢の勝利が明らかになったのを見定めてから明智勢に攻めかかったということになっている。しかし、洞ヶ峠に布陣したのは光秀であり、光秀は「参陣せねば郡山を攻める」と通告してきたが、順慶はそれでも郡山城にあって動かなかったのである。このことから『洞ヶ峠』という言葉は今も日和見の代名詞として使われているが、実は誤伝である。
その後も秀吉に属し、天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦には尾張国に出陣したが、病を患って郡山城に帰り、8月11日に病没した。享年36。肺結核とも胃の疾患ともいわれている。
唯識論(法相宗の重要な聖典)に通じ、教養も高く、和歌や謡曲、茶道をよくした文化人だったという。また、いつも猩々の皮の縁のついた頭巾を被り、金襴の守り袋を肩から斜めにかけて戦場に赴いたという。