細川義春(ほそかわ・よしはる) 1468~1494

細川氏阿波守護家・細川成之の二男。細川政之の弟。通称は彦九郎。初名は之勝。讃岐守。
文明15年(1483)の時点では細川氏備中守護家・細川勝久の養子になっており、文明18年(1486)7月に幕府に出仕し、9代将軍・足利義尚の近習として近侍した。翌年の鈎の陣にも義尚に随従しているが、その着到状に「細川上総彦九郎」とあることから上総介の官途を持つ養父・勝久の名代として出陣したものであろう。
長享2年(1488)7月に兄で阿波守護家を継いでいた政之が没したため、実家に戻ってそのあとを継いだ。阿波の守護となった。
延徳3年(1491)6月20日、10代将軍・足利義稙から偏諱を与えられて義春に名を改め、その翌日には将軍を自邸に迎えて歓待している。
同年8月、前将軍義尚の死去によって中断していた六角高頼討伐に出陣。この陣中において催された歌舞宴に招かれて同席したり、義稙が一時的に帰洛する際にも随行し、自邸に渡御を賜るなど、信任を得ていた。
明応2年(1493)2月、畠山政長畠山義豊の内訌に介入した義稙が政長を支援して河内国に出兵した際、義春もこれに従軍した。しかしこの出兵中の4月に、京都で細川政元足利義澄を新将軍として擁立(明応の政変)。誉田城でこれを知った義春は撤退して閏4月5日に帰洛したが、残された軍勢は20騎にも満たなかったという。
明応3年(1494)10月末には山城守護に任じられたともされるが、前守護の伊勢貞陸は未だ辞職しておらず、義春は11月末に幕府の許可を得ないまま本国の阿波に帰国している。これは、義春が山城守護を望んだが現守護の伊勢貞陸と競合したため叶わずに帰国したものと解される。
しかし帰国して1ヶ月ほどのちの12月21日、享年27で死去した。