畠山義豊(はたけやま・よしとよ) ?〜1499

畠山義就の子。初名は基家。
応仁元年(1467)より始まる応仁の乱に際しては西軍に属し、6月には京都に出陣している。
延徳2年(1490)12月の父・義就没後に家督を継ぎ、『誉田屋形』と称される。
明応元年(1492)、10代将軍・足利義稙六角高頼討伐に従軍。
義就は従兄弟の畠山義富、ついでその弟の畠山政長と畠山氏惣領の地位を争っていたが、政長は将軍家との関係を強化して義豊の討伐を訴え、明応2年(1493)2月に義稙を擁して義豊の拠る河内国誉田城、ついで高屋城を攻めた。しかしこの隙を衝いて京都で細川政元足利義澄を新将軍に擁立して決起(明応の政変)するに際し、義豊は政元に与したものとみられる。
同年4月には政元より派遣された安富元家・上原元秀らの軍勢に攻められた政長が敗死、その子・畠山尚順は紀伊国へ敗走、義稙は上原元秀に捕えられた(正覚寺の戦い)ことで義豊が畠山氏惣領ならびに河内・紀伊守護の地位に就くが、重臣の遊佐氏と誉田氏の対立などもあって領国支配を安定できず、その後の明応8年(1499)1月30日、畠山尚順の軍勢に攻められ自刃した。