畠山義富(はたけやま・よしとみ) ?〜1459

畠山持富の子。畠山政長の兄。畠山義就とは従兄弟の間柄。通称は弥三郎。
伯父で畠山氏惣領であった畠山持国は、はじめ義富の父・持富を後継者に定めていたが、文安5年(1448)に妾腹の子である義就に家督を譲ろうとしたため、畠山氏に分裂内訌が生じた。
義富はこの持国の転換に反発した家臣らによって擁立されたが、享徳3年(1454)4月、持国から派遣された軍勢に攻められて没落。しかし義富は畠山氏の弱体化を図る細川勝元、義富派の家臣らは山名宗全の支援を取りつけた。この幕閣における二大大名の支持を得たことで形勢は逆転し、同年8月には持国・義就父子を没落させて将軍・足利義政への謁見を果たし、畠山氏家督として認められた。
しかし同年12月には義政の支持を得た義就が軍勢を率いて入京すると更迭され、大和国に逃亡して(成身院)光宣筒井順永らと提携して抗戦した。
この後の長禄3年(1459)7月に赦免されたが、その直後の9月頃に急死した。