幕府管領・細川政元が10代将軍の足利義稙を失脚させ、自身の擁立する足利義澄を第11代の将軍職に就けた事件。
長享3年(=延徳元年:1489)3月に9代将軍・足利義尚が嗣子なく没すると、次期将軍の座をめぐる問題が浮上。このとき候補者として足利義澄と足利義稙があげられた。どちらも義尚の従兄弟にあたる。
政元は、義稙の父・足利義視が応仁の乱において初めは政元の父・細川勝元の支持を受けながらも西軍に鞍替えした経緯などから義稙の擁立に反対し、義澄を次期将軍に推したが、義尚の母・日野富子や諸氏の反対にあって義稙が将軍職を継ぐこととなった。
延徳2年(1490)7月に将軍位に就いた義稙は、応仁の乱より続いていた畠山政長と畠山義豊(基家)の分裂抗争に介入して政長を支援し、義豊を討伐するために自ら軍勢を率いて明応2年(1493)2月に河内国へ出征した。が、この機を衝いた政元は4月22日に義澄を奉じて挙兵に及んだのである。
京都を制圧した政元は上原元秀・安富元家らの軍勢を河内国に差し向け、閏4月25日に政長を討つとともに義稙を捕えた。捕えられた義稙は6月には逃走して反攻を企図するが退勢は覆せず、翌年末に義澄が将軍職に就くに及んで政元は管領として幕政の実権を独占的に掌握、『半将軍』と称されるほどの権勢を揮うことになる。