細川政之(ほそかわ・まさゆき) 1455~1488

細川氏阿波守護家・細川成之の嫡男。通称は弥九郎。兵部少輔・讃岐守。
文明10年(1478)9月頃、出家した父の成之から阿波守護家の家督と職を譲られ、父と同様に在京して守護の任にあたっている。
しかし翌文明11年(1479)8月には「諸篇無正軆人也」、つまり政之が万事まともでない人だとして、被官が別の者を主君に立てようとする騒動が起こった。この騒動は大事に至らず沈静化したようだが、被官層には反政之派が少なからずいたことがわかり、政之も被官層を統制できていなかったことが窺える。とくに、重用した三好之長の粗暴な振舞いには家中の内外から批判があったが、成之とともに之長をかばっている。
文明17年(1485)10月、本国の阿波で反乱が起こったので成之や之長とともに帰国し、細川一族の細川政国・細川尚春らの与力もあってこれを鎮定し、翌年には帰京したようである。
長享2年(1488)4月下旬、将軍・足利義尚による六角高頼討伐(鈎の陣)に従軍した。討伐軍の本軍は前年9月より戦いを始めていたが、増援部隊としてであろうか、政之はこの時期の出陣となっている。
しかしこの陣中で病に罹ったようで、出陣後わずか3ヶ月後の同年7月26日、京都の私邸で父に先立って死去した。享年34。法名は瑞松院殿天藏大居士。