細川氏阿波守護家の当主。細川教祐の子。母は土佐守護代・細川頼益の妹。通称は六郎。兵部少輔・讃岐守。
父の兄で阿波・三河国の守護を兼ねる細川持常の養子となり、宝徳元年(1449)12月、持常の急死によって細川氏阿波守護家の家督を継承し、阿波・三河守護となり、在京して幕府に仕えた。
長禄4年(=寛正元:1460)9月、畠山義就と畠山政長の抗争において京が騒動した際、将軍・足利義政の命を受けて朝廷の警護にあたり、その後も義政の命を受けて義就追討軍に加わって河内国に出陣した。
寛正3年(1462)には幕府管領で細川氏の惣領・細川勝元の要請を受けてのことか、伊予国に軍勢を送っている(寛正伊予の乱)。
応仁の乱にも東軍の総帥となった細川勝元をよく補佐して京都で戦い、文明5年(1473)5月の勝元の死後には、そのあとを継いだ細川政元らとともに東西両軍の講和を進めた。
三河国の支配をめぐっては先代の持常の頃より一色氏と確執があり、応仁の乱に際しても細川氏は東幕府から、一色氏は西幕府から守護に任じられるなど競合していたが、文明8年(1476)およびその翌年にも三河守護代の東条氏が一色方からの攻撃を受け、これが幕府から許可を得ていたとのことから、成之はこれに反発して幕府への出仕を拒否したが、文明10年(1478)2月には足利義政夫人の日野富子、幕府政所執事の伊勢貞親、細川政元らが成之邸を訪れて義政からの出仕要請を伝えており、一色義直も詫状を提出していたこともあって、これに応じて出仕したようだ。
同年9月頃、おそらくは息女の死を悼んで出家して道空と号し、家督と阿波守護職を嫡子の政之に譲った。しかし翌文明11年(1479)より政之に反発する被官が別人を当主に立てようとする動きがあり、文明17年(1485)10月には阿波国で反乱が起こるまでになったため政之らとともに帰国し、細川一族の細川政国・細川尚春らの支援を得て鎮圧した。
その後は阿波に在国したようだが、長享2年(1488)7月に政之が死去し、備中守護家の養子となっていた二男の義春を戻して家督を継がせたが、この義春も明応3年(1494)12月に没した。そのあとは義春の子である細川之持が継いだ。
また、之持の弟・澄元は文亀3年(1503)5月に実子のなかった細川政元の養子になった。
永正2年(1505)5月、細川政元から討伐を受けたが、被官の三好之長が兵站拠点の淡路を急襲したために政元方は撤兵せざるを得なくなり、和議が結ばれたとみられる。この討伐の理由は、この前年9月に政元被官の薬師寺元一が謀叛を起こすも失敗して自害しているが、阿波細川氏もこれに意を通じていたためとされる。
永正4年(1507)6月に政元が暗殺されると、澄元を含めた養子同士でその家督を争うことになったが、成之は直接の関与はしなかった。
永正8年(1511)9月12日(一説には9日)に死去した。享年78。