武田恕鑑(たけだ・じょかん) ?〜1534

上総国真里谷武田氏。上総国真里谷城主。出家号は寿星庵恕鑑で、実名は「信清」「信保」などと諸説があり、不詳。
上総国武田氏の祖・武田信長の後裔にあたり、真里谷武田道鑑(実名は清嗣か)の孫。真里谷武田信嗣の子。通称は八郎五郎。はじめ式部丞、のちに式部大夫。三河入道とも称される。
永正年間の初期頃には上総国の市原郡・長北郡等の領有をめぐって千葉勝胤の勢力と抗争に及んでいるが、劣勢を強いられたため古河公方・足利政氏の子である足利義明を招請して擁立することを画策、さらには北条早雲の支援をも得て諸勢力の糾合に成功し、永正14年(1517)10月に千葉氏麾下の三上氏や原氏の拠点である三上(真名)城・小弓城を攻略。のち、小弓城を義明の居所として小弓公方を成立させ、その後ろ盾となることで声望を高め、上総国の中心勢力へと発展した。
しかし大永5年(1525)に至って義明が早雲の子・北条氏綱と敵対する扇谷上杉朝興と結んだこと、また天文2年(1533)7月より激化する里見氏の内訌において真里谷武田氏は嫡流の里見義豊を、北条氏は庶流の里見義堯をそれぞれ支援したことなどから、北条氏との関係は悪化した。
天文3年(1534)7月1日に病死した。