里見義豊(さとみ・よしとよ) 1514〜1534

安房国の豪族・里見義通の嫡男。幼名は竹若(武若)丸。通称は太郎。
安房国里見氏の惣領であった父・義通が永正15年(1518)(一説には永正17年)2月に死没した際は未だ幼少であったため、惣領職は叔父(義通の弟)である里見実堯が代行し、竹若丸は宮本城にあって成長した。
その間は実堯が執政したが、20歳になれば国政を譲るという約定を履行しなかったため、天文2年(1533)7月、安房国稲村城に実堯を攻めて討ち果たしたとされる(稲村城の戦い)。
しかし実堯の子・里見義堯が相模国の北条氏綱に支援を求め、北条氏は房総進出の好機と捉えてこれに応じ、8月には水軍を派遣している。また、実堯とともに討死した正木通綱の子である正木時茂・時忠兄弟も兵を挙げるなどしたため劣勢を強いられ、9月には真里谷武田恕鑑を頼って上総国に落ち延びた。
恕鑑の支援を得て態勢を立て直した義豊は翌天文3年(1534)4月に安房国へと攻め込んだが、安房国の犬掛で義堯勢との会戦となり、これに敗れて自刃した(犬掛の合戦)。法号は高厳院殿長義居士。