里見義通(さとみ・よしみち) ?〜?

安房国の豪族・里見成義(あるいは義成)の子とされる。上総介・刑部少輔。
安房国里見氏は清和源氏の流れを汲む新田義重の子・義俊が上野国碓氷郡里見郷に住して里見氏を称したことに始まり、その3代のちの里見竹林二郎義秀の後裔が安房・上総国に勢力を築いたとされているが、確実な史料で実在を確認できるのは、この義通とその弟・実堯からである。
軍記の類では義通の祖父とされる里見義実、あるいは義通の子・義豊(実在)が安房国を平定したとするが、義通が永正5年(1508)9月に安房国山下郡に安房国の総社である鶴ヶ谷八幡宮を造営していることに鑑みれば、規模の大きな事業をできるということは、この義通の代には安房国随一あるいは屈指の勢力であったであろうことが推測できる。また、このときの棟札で古河公方・足利政氏の武運長久を祈願していることから、古河公方に属していたことがわかる。
永正11年(1514)11月、鶴ヶ谷八幡宮の別当寺である那古寺の梵鐘を再鋳した。
通説では永正15年(1518)2月1日に没したとされるが、『里見軍記』『里見代々記』等の軍記では永正17年(1520)の同日に享年38で、『里見九代記』では永正17年2月1日に享年28で没したとする。法号は天笑院殿高山正晧居士。