稲村(いなむら)城の戦い

永正15年(1518)2月1日、稲村城に拠って安房国で勢力を揮っていた里見義通が病没した(『里見軍記』等では永正17年とする)。
義通には竹若丸という嫡男があったが、未だ若年の少年であったため、臨終の病床に弟・里見実堯を招いて竹若丸の後見として後事を託し、竹若丸が成長したのちには家督を譲るように遺言したという。
実質的に里見氏の家督を継承した実堯は稲村城に入り、竹若丸は里見氏重臣の中里源太左衛門・本間八右衛門が付され、宮本城に配された。
竹若丸はここで成長し、のちに元服して里見義豊と名乗ったが、実堯は義豊が20歳になった天文2年(1533)に至っても家督を義豊に渡そうとしなかったため、義豊は実堯を倒すことを決意した。一方の実堯は近日中に家督を譲る準備をしていたというが、これを知らずに7月27日の夜半に稲村城の襲撃に及んだ義豊の軍勢に討たれたのである。

これが軍記等で伝わる顛末であるが、そのままには容れられない点もある。
大永6年(1526)12月、里見軍は房総の軍船でもって三浦半島に押し渡り、さらには鎌倉にまで乱入して鶴岡八幡宮の社殿を兵火にかけている。このことは信憑性の低いとされる軍記・物語等にのみ記されているため疑わしいとも見られていたが、『快元僧都記』天文3年(1534)4月7日の条で、かつて義豊が鶴岡八幡宮を攻撃したことを示唆していること、また、天文2年3月に北条氏綱から里見氏に出された書状が「里見太郎殿(義豊)」宛てであったことことなどから、義豊はおそらくはこの大永6年の出征に大将として軍勢を率いる地位にあったこと、天文2年には北条氏より里見氏当主として認められていることがわかり、先述した顛末とは整合しない部分が見受けられるのである。

これらを勘案すれば、義通の遺言は実行されて里見氏の家督は実堯から義豊に譲られたが、実堯との反目、あるいは実堯の勢力や声望に危機感を抱いた義豊が、先手を打って実堯を滅ぼしたとも考えられるのである。