三船台(みふねだい)の合戦

永禄7年(1564)1月の国府台の合戦:その2で北条氏に敗れて上総国の大半を失い、本国である安房国に押し戻された里見義堯義弘父子であったが、その後は徐々に勢力を回復し、永禄10年(1567)頃には久留里・佐貫を拠点として上総国南部にまで進出するまでになっていた。
越後国の上杉謙信による越山(関東出兵)と里見氏の上総国進出による挟撃を危惧した相模国の北条氏政は里見氏を圧迫するため、同年8月に北条綱成に命じて三浦半島より安房国を衝かせることとし、自らも3千ほどの軍勢を率いて上総国西部より海岸伝いに侵攻、義弘の拠る佐貫城の北方に位置する三船台(三船山)に布陣した。
この三船台とは佐貫城との間に平地を隔てた丘陵地帯の一画で、通じる道も細く九十九折の難所となっており、攻めるに難く守るに易い要害の地である。
合戦の推移は史書・軍記などで諸説まちまちだが、戦いがあったのは8月下旬で、北条勢はこの難所に里見勢を誘き寄せて討ち果たそうと目論んでいたが、逆に里見勢の陽動作戦に引き寄せられて山を下ったところを八幡山に隠れていた里見氏重臣・正木時茂の指揮する伏兵に横槍を入れられて混乱し、武蔵国岩付城主・太田氏資をはじめとして2千5百ともいわれる死傷者を出して大敗北を喫した。
また、水軍を率いて安房国に侵攻する手はずとなっていた北条綱成の軍勢も、菊名浦の沖で里見氏の水軍に撃退され、安房国侵入は果たせなかった。
この合戦の勝利によって里見家は威勢を挽回し、上総国の旧領を回復しただけに止まらず、下総国にまで進出するようになったのである。