那須資房(なす・すけふさ) ?〜1552

下野国の国人領主。那須氏庶流の下那須家・那須資実の子。母は上那須家・那須資親の娘。通称は与一。越後守・修理大夫。下野国烏山城主。
永正3年(1506)より始まった古河公方の足利政氏高基父子の分裂抗争(永正の乱)において、那須氏では上那須家が高基方、下那須家が政氏方に与したが、資房は永正9年(1512)頃にこの下那須家の当主に就いたようである。
那須氏の惣領で那須上荘を支配する上那須家の資親は男児に恵まれなかったため、縁戚関係にあった白川政朝の二男を養子に迎えて那須資永と名乗らせていた。しかし永正6年(1509)に至って資親に実子の資久が誕生し、永正11年(1514)の資親の死没を契機として資永と資久方で抗争が起こり、両名ともに死亡した。この内訌によって惣領家が断絶したため、資房は嫡子の那須政資を上那須家の主要な城であった山田城に置き、那須上下荘を統括した。しかし実情は上下荘を自力で制圧したのではなく、滅亡した上那須家の被官であった大田原氏や大関氏を他勢力から庇護するために旗頭となったものとみられる。
下那須家はこの間の永正7年(1510)頃は政氏陣営に在ったようであるが、永正13年(1516)の中頃までには高基方へと転じている。政氏方に転じた上那須家に対抗してのことか、あるいは高基方優勢に傾いた戦況を見てのことかは不詳である。
政氏と高基の抗争は永正15年(1518)に終息するが永正17年(1520)8月、旧政氏方だった陸奥国の岩城常隆が下野国に進出、那須政資の籠もる山田城を攻撃したため資房も出陣し、縄釣(なわつるし)で対戦して岩城軍を破った。
翌大永元年(1521)にも岩城常隆・重隆父子は再び烏山城に来攻したが、下野国壬生の壬生徳雪斎の進言で和睦したといい、常隆の娘と政資との婚姻が成立した。
天文21年(1552)11月5日死去。