那須資永(なす・すけなが) ?〜1514

陸奥国白河城主・白川政朝の二男。白川顕頼の弟。
文明19年(1487)頃、男児のなかった那須資親の二女の婿となって太郎を称し、その嗣子となる。資永の曽祖父にあたる白川氏朝が那須氏一族の那須(伊王野)資朝の子であったことが所縁であろうか。資永が入嗣した上那須家では代々の当主が太郎を称しており、資永は次期当主として迎えられたことが明らかである。
永正3年(1506)に勃発した古河公方の足利政氏高基父子の分裂抗争(永正の乱)に際しては、当初は養父の資親とともに高基方に属した。妻の姉(資親の長女)が宇都宮成綱室となっており、その娘が高基室となっていた縁戚によるものだろう。しかし実父の白川政朝が政氏方に与していたことから、しだいに政氏方へと転換していったようである。
資永は永正4年(1507)には上那須家の家督を譲られていたと推測されており、家督継承を機に、それまで住していた山田城から福原城へと移ったようである。
しかし永正6年(1509)に隠居の資親に実子の資久が誕生したことで資親と不和になり、資永の当主としての地位も危ぶまれるようになった。
永正7年(1510)9月、実父の白川政朝が白河結城氏一族の小峰氏によって逐われてくると、自領に保護した。
軍記物の『那須記』によると、資親は永正11年(1514)に没するに際し、資永を討って資久に家を継がせるように遺言したといい、これを受けて重臣の大田原氏らが資久を擁して挙兵、大関氏や那須上荘の諸領主らもこれに同調した。このため福原城に在った資永は窮余の策として黒羽城(山田城か)から資久を略取して殺害したが、劣勢を支えきれず、自らも自害したという。
資永は同年8月2日付で実家の白河結城氏、おそらくは実母に宛てて遺書を認めており、自害したのはその翌日の3日であった。