白川氏朝(しらかわ・うじとも) ?〜?

白河結城氏第5代当主。弾正少弼。実父は那須資朝とされるが、この資朝の名は那須氏の系図に見えず、那須一族の伊王野資朝と思われる。
応永10年(1403)頃に白河結城氏第4代・白川満朝の養子となる。
応永22年(1415)頃に満朝より家督を譲られたとされるが、氏朝の初出文書が応永26年(1419)12月21日であることなどから、疑問も残る。
応永20年(1413)10月に陸奥国伊達郡梁川城主・伊達持宗が鎌倉府に対して反抗する姿勢を顕したとき、鎌倉公方・足利持氏から追討の軍勢を催促されているが、出兵はしなかった。
応永29年(1422)閏10月、京都扶持衆の討伐を進める持氏の下知に従って常陸国の山入与義を攻め、翌年には常陸国依上保に所領を与えられているが、持氏が幕府(京都)の将軍家と対立するようになると幕府寄りの姿勢を見せており、この頃に京都扶持衆になったと思われる。
正長元年(1428)12月、陸奥国石川荘の地をめぐって石川義光と戦ってこれを討つ。このとき篠川御所の足利満直から褒賞されているが、稲村御所の足利満貞や鎌倉公方の持氏は義光の子・石川持光の後ろ楯となったため、持氏からは敵視されるようになった。
正長2年(=永享元年:1429)5月頃からの那須氏の内訌には本宗家(上那須家)の那須氏資に合力して自ら下野国黒羽城に入城し、庶流(下那須家)を支援する鎌倉公方方の軍勢と戦っている。これは、自身も討伐対象とされていたため、那須地方を守ることが自領を守ることになると考えたのであろう。
同年9月頃には幕府の命を受けた伊達持宗の調停を受けて、石川氏との抗争には鉾を収めたようであり、10月頃には下野国那須荘での抗争も縮小したようである。
永享10年(1438)8月の足利持氏と関東管領・上杉氏一派の対立(永享の乱)勃発に先立ち、氏朝は幕府から出陣を要請されている。この際の動向は史料では見えてこないが、翌永享11年(1439)10月に将軍・足利義教から越後国蒲原津の代官職を与えられ、永享12年(1440)4月に上洛して義教に謁見していることからすれば、幕府方に与したものと推察できる。
この上洛中に結城合戦への参陣を命じられたと思われ、10日ほどで帰国の途に着き、帰国後は主戦場の下総国結城城ではなく、陸奥国の白河付近で結城方に与した石川氏と戦っていたようである。
氏朝には男児がなかったようで、同族の小峰朝親の子・直朝を嗣子としていたが、この頃より史料では氏朝の名が見えなくなり、これ以後は直朝の名が見えるようになる。