白川満朝(しらかわ・みつとも) ?〜?

白河結城氏。幼名は千代夜叉丸。通称は三河七郎。左兵衛尉。出家号は道久。
実父は白河結城氏の一族・小峰政常であるが、大伯父にあたる白川顕朝の養子となり、応安2:正平24年(1369)6月に顕朝から白河結城氏の家督と陸奥国白河・石川以下諸郡の検断職を譲られた。
2代鎌倉公方・足利氏満の麾下に属し、応永3年(1396)には小山若犬丸を討つために出征した氏満に与力した。氏満の没後はその嫡子・足利満兼に従い、満兼が応永6年(1399)春に弟の満貞を陸奥国統治のために岩瀬郡稲村に派遣すると、これを支援している。
この頃より京都扶持衆(幕府直属の武将)と鎌倉公方方の武将の対立が高まるが、応永7年(1400)3月には満貞に反抗した伊達(大膳大夫)政宗・蘆名満盛を追討し(伊達政宗の乱)、翌年の1月末に満兼より感状を与えられている。また、応永9年(1402)に政宗が赤館(桑折西山城)に拠って再び蜂起した際にも、上杉禅秀に従ってその鎮圧に出陣した。
応永10年(1403)頃に那須(伊王野)資朝の子・氏朝を養子として応永22年(1415)10月に家督を譲ったとされているが、応永24年(1417)9月30日付、道久の名での寄進状が存在し、嗣子となった氏朝の初出文書は応永26年(1419)12月21日であることから、家督譲渡の時期には疑問もある。
応永20年(1413)4月に伊達持宗が挙兵した際、満朝は4代鎌倉公方・足利持氏より出陣を要請されて請文を提出しているが、実際に出陣はしなかったようである。また、応永23年(1416)の上杉禅秀の乱では禅秀に味方したともいい、鎌倉公方から距離を置いていたことがうかがえる。
この乱後の応永25年(1418)頃より持氏は京都扶持衆の討伐を開始し、嗣子の氏朝は持氏方の武将として山入与義を攻めて軍功を挙げているが、満朝は応永31年(1424)に幕府将軍・足利義持より御内書を下されており、これと前後して京都扶持衆となったようである。