那須氏資(なす・うじすけ) ?〜?

下野国の国人領主。那須氏惣領・那須資之の子。母は上杉禅秀の女。通称は太郎。大膳大夫。上那須家。
正長元年(1428)8月に父の資之が没すると、そのあとを継いで上那須家の当主となる。
那須氏ではこれ以前より那須上荘の上那須家(本宗家)と那須下荘の下那須家(庶家)の反目が内包されていたようだが、氏資による家督継承を機に鎌倉公方・足利持氏がこれに介入し、下那須家の五郎(那須資重)を支援した。
正長2年(=永享元年:1429)5月には鎌倉公方方の軍勢に攻められており、氏資は篠川公方の足利満直に支援を求め、その報告を受けた幕府が早々に氏資支援の方針を打ち出し、足利満直や伊達氏・蘆名氏ら13氏に氏資の支援を命じたため、この那須氏の内訌はそれに止まらず、幕府対鎌倉府の様相を呈するようになった。このとき陸奥国白河の白川氏朝から、特に強い支援を受けている。
この上那須家への攻撃は断続的に続けられたようであるが、永享3年(1431)7月に至って鎌倉府側が幕府に謝罪したため、上那須家への攻撃も終息した。
しかし永享7年(1435)6月に至り、持氏は京都扶持衆の佐竹山入祐義や氏資の討伐を企てる。このとき持氏は対上那須家への大将として近臣の一色直兼を那須口へと派遣しているが、大きな戦いにはならなかったようである。
そして永享10年(1438)8月、持氏と対立した関東管領・上杉憲実が領国の上野国に下国し、これに持氏が追討の兵を向けたことで永享の乱が勃発するが、憲実に随従した者のなかに「那須太郎」がいる。氏資であろう。しかしこの後の氏資の動向は不明である。
生没年ともに不詳であるが、文安6年(1449)4月20日付で白川直朝に書状を送っていることから、この時点での存命は確実とみられる。
また、幕府将軍・足利義政は長禄4年(=寛正元年:1460)10月21日付で「那須大膳大夫」に宛てて御内書を発している。氏資も子の那須資親も大膳大夫を称しているため判別し難いが、活動年代から見て氏資であろうか。