白川直朝(しらかわ・なおとも) ?〜?

白河結城氏。読みを「ただとも」とも。小峰朝親の子であるが、永享10年(1438)8月までには男子がなかったとみられる白川氏朝の嗣子となっている。生家の小峰氏は白河結城氏の庶流であるので、直朝は庶家から本宗家の家督を継いだことになる。陸奥国白河郡白川城主。
永享4年(1432)、修理大夫に任じられる。
永享12年(1440)に北関東で勃発した結城合戦に際しては、養父の氏朝が幕府から命を受けていたこともあり、白河結城氏の本家筋にあたる下総国結城氏(反幕府方)には与同せず、下野国の那須郡方面へ出陣したようである。
また、この頃より史料では氏朝の名が現れなくなり、代わって直朝の名が散見されるようになるので、代替わりしたものと思われる。
宝徳3年(1451)から享徳2年(1453)にかけての陸奥国会津の蘆名氏の内訌に際しては、蘆名氏当主の蘆名盛詮を支援して介入した。
享徳3年(1454)末、関東地方では享徳の乱と称される古河公方・足利成氏と関東管領の上杉氏一派による大規模な対立抗争が勃発する。この抗争に幕府は上杉方を支援し、京都扶持衆であった白河結城氏も上杉方に与したと思われるが、主力としての軍事行動は見受けられない。
康正2年(1456)4月、足利成氏に敵対していた宇都宮等綱から、支援の見返りとして下野国の塩谷3ヶ郷、武茂12ヶ郷を譲り受けた。また、この年か翌年には没落して逃れてきた等綱を、白河に庇護している。
翌康正3年(1457)4月には室町幕府8代将軍の足利義政より陸奥国南域の幕府方勢力の中心として重んじられ、義政庶兄の足利政知(のちの堀越公方)や宇都宮等綱の支援を命じられている。また文明3年(1471)頃には下野国の那須氏の内訌を調停するなど、北関東の諸氏にまで影響力を及ぼし、白河結城氏の最盛期を現出した。
文正元年(1466)8月には道朝と号している。
生没年ともに不詳だが、文明19年(1487)までは存命が確認できる。関川院と称す。