宇都宮忠綱(うつのみや・ただつな) 1497?〜1527

宇都宮氏第18代当主。第17代・宇都宮成綱の子。母は那須資親の長女。通称は弥三郎。右馬権頭。
永正3年(1506)に始まる古河公方の足利政氏高基父子の分裂抗争(永正の乱)には、妹が高基室となっていたということもあり、父の成綱とともに一貫して高基陣営に在った。
永正8年(1511)5月から翌永正9年(1512)3月までの間に、父の成綱から家督を譲られたとみられ、下野国宇都宮城主となる。
この家督継承は、足利政氏の意向を受けた宇都宮氏重臣の芳賀高勝が、足利高基を支持していた成綱を圧迫したものとみられ、永正の乱の余波ともいえる。そして隠居の身となった成綱が永正9年5月に芳賀高勝を生害させたことで「宇都宮錯乱」と称される芳賀氏との抗争が勃発することとなったが、成綱・忠綱父子は永正11年(1514)7月頃に芳賀氏を屈服させ、終息させることに成功した。
また、いずれも時期は不詳であるがこれと前後して、芳賀氏に叔父(成綱の弟)の興綱を入嗣させて芳賀氏当主に据え、同じく叔父の兼綱と孝綱にそれぞれ武茂氏と塩谷氏を継がせた。この3氏はいずれも宇都宮氏の重臣格であり、この3氏を血族で固めたことによって、忠綱(あるいは成綱)は家中の統制の強化に成功したといえるだろう。
永正11年8月、那須氏の内訌に乗じて下野国へ侵攻してきた佐竹義舜・岩城常隆連合軍(足利政氏方)の攻撃を受けたが、義弟の結城政朝や山川朝定・水谷勝之ら結城氏勢力の支援を受けて撃退した(竹林の合戦)。また永正13年(1516)6月にも下野国の縄釣(なわつるし)で佐竹・岩城連合軍と戦って撃退した。
しかしその後、結城氏の勢力拡大に伴って不和となり、大永6年(1526)12月には結城政朝の侵攻を受けて防衛にあたったが、叔父の芳賀興綱は政朝と結んでおり、この連合軍と下野国猿山で戦って敗れて宇都宮城は興綱に奪われ、壬生氏の鹿沼城に逃れた。
翌大永7年(1527)7月16日、失意のうちに没した。享年31か。