結城晴朝(ゆうき・はるとも) 1534〜1614

下総国結城氏第17代当主。小山高朝の三男。通称は七郎。左衛門督・中務大輔・従五位下。
伯父で結城氏16代・結城政勝の養子となり、永禄2年(1559)に家督を継ぎ、下総国結城城主となる。
下総国結城を本拠とし、関東八屋形のひとつに数えられる結城氏は、政勝の代に分国法『結城家法度』を定め、結城・下妻・下館・長沼一帯に威を振るった。小田氏治を攻めて分国を広げ、上杉謙信に抵抗して北条氏康に通じ、氏康の甥にあたる足利義氏を奉じて下総国関宿に籠城したりした。
政勝はのちに北条氏に帰属するが、晴朝の代になると常陸国の江戸重通と縁戚になり、佐竹義重とも誼を通じ、永禄7年(1564)と天正5年(1577)に北条氏政の軍勢と戦った。
天正18年(1590)春に本領10万千石を羽柴秀吉から安堵され、小田原征伐にも参陣した。
同年8月、徳川家康の二男で秀吉の養子となっていた秀康を世嗣に迎えて家督を譲った。
関ヶ原の役後、秀康が越前国北ノ庄へ加増転封になると行を共にし、片糟館に住して秀康の五男・五郎八直基を養育。のちに直基が結城の家名を継いだ。
慶長19年(1614)7月20日、北ノ庄にて没した。81歳。法名は泰陽院殿宗静孝善大居士。