成田氏長(なりた・うじなが) 1541?〜1595

武蔵国の国人領主。成田長泰の嫡男。妻は太田資正の娘。下総守。武蔵国忍城主。
天文21年(1552)4月、父の長泰とともに祈願社の妻沼聖天堂を建立する。
永禄6年(1563)2月に成田氏は越後国の上杉謙信に服属し、同年閏12月には謙信が越山するに際しての出陣を要請されているが、これに応じたかは不詳である(越山:その4)。
永禄8年(1565)5月、かつての居城であった武蔵国岩付城の奪還を企てて失敗した岳父の太田資正を忍城に庇護する。このためか、同年9月頃に北条氏によって忍城周辺に攻撃を受けている。
家督相続をめぐって父子闘争の危機もあったが、永禄9年(1566)8月に家を継いで忍城主となり、北条氏に属した。
成田氏は遅くとも長泰の代には近隣の羽生城の木戸氏と抗争するようになっていたが、北条氏と上杉氏の越相同盟が元亀2年(1572)の秋頃に破れたのちは北条氏の支援を得て羽生領を圧迫し、天正2年(1574)閏11月には、ついに上杉勢に羽生城の維持を断念させ、この羽生領を北条氏から安堵された。
天正10年(1582)5月末、織田氏武将の滝川一益が上野国厩橋城に入ると出仕したが、6月の本能寺の変後に織田領国が崩壊すると、再び北条氏に服属した。
天正18年(1590)の小田原征伐に際しては、自身は北条氏の本城である相模国小田原城に籠もりながらも、早くから羽柴秀吉に内通していた。だが忍城の守兵はこれを知らされないままに抗戦したため、世に喧伝される石田三成の水攻めが行われた。
戦後、内応失敗の罪をあがなうために黄金900枚、唐頭(兜)18を秀吉に献上、辛うじて恭順を認められた。一説には、娘の甲斐殿を秀吉の側室に差し出して罪を許されたともいう。
のち弟・長忠とともに蒲生氏郷に仕え、那須資晴の旧領である下野烏山城3万7千石を与えられた。
文禄の役には肥前国名護屋城に駐屯した。
文禄4年(1595)12月11日死去。家督は弟の長忠が継いだ。