越後国の上杉謙信と相模国の北条氏康が結んだ同盟。
上杉謙信は、北条氏康に圧迫された上杉憲政ら諸領主の要請を容れ、北条氏を討伐するために越山と呼ばれる関東出兵を行ったが、氏康は武田・今川・北条の3氏からなる相互同盟(甲駿相三国同盟)に裏打ちされた盟友・武田信玄の支援を得て、謙信に対抗していた。
しかし永禄11年(1568)末に信玄が三国同盟から離脱して今川氏を攻めたことにより、氏康も信玄を敵とするに至ったのである。北条氏は他にも常陸国の佐竹義重、安房国の里見義堯・義弘父子などとの抗争も抱えており、それまで味方であった武田氏を敵に回すのは極めて不利な状態であった。
この情勢を受けた氏康は信玄への対抗策として、謙信との同盟を模索した。北条と上杉が結べば南北に武田氏を扼すこととなるばかりか、謙信と友好関係にある里見氏との関係の修復も期待できるのである。
また一方の謙信も、信濃・越後国境や上野国西部に侵攻する信玄とは敵対関係にあったことから氏康の呼びかけに応じ、永禄12年(1569)6月には信玄を共通の敵と位置づけて提携することを約し、同盟が成立したのである。
この同盟の締結にあたっては、謙信が憲政から継承した山内上杉氏の領国である上野国の領有権や関東管領という政治的地位を北条氏側が容認することが条件だったが、永禄13年(=元亀元年:1570)3月には北条氏の属城となっていた武蔵国岩付城を前城主の太田資正に返付すること、この同盟の証人(人質)として氏康の子・氏秀(のちの上杉景虎)を謙信のもとに送ることといった条件も付与されていることから、北条氏側が大きく譲歩して結ばれた同盟であった。
しかし実際には謙信が北条氏の支援に消極的だったことから上杉・北条の共闘は実現せず、この同盟関係はまったく機能することがなかった。そのため元亀2年(1571)10月の氏康の死没直後、この関係は破綻することになった。