後北条氏第3代当主・北条氏康の六男。北条氏政らの異母弟で、母は不詳であるが遠山康光の妻の姉ともいわれる。幼名は竹王丸または西堂丸。通称は三郎。初名は氏秀。
幼時は曽祖父・北条早雲の菩提寺である箱根早雲寺の明叟禅師に託されて喝食僧となっていたが、甲斐国の武田氏・駿河国の今川氏・相模国の北条氏が甲駿相三国同盟を結んだ際、人質として武田氏のもとに送られた。
永禄11年(1568)末に武田氏が盟約を反故にして今川氏の所領である駿河国に侵攻した際、北条氏は今川氏を支援したことから北条・武田の同盟も破れたため北条氏の本拠・相模国小田原に帰り、大叔父にあたる北条幻庵の養子となる。
永禄12年(1569)に上杉謙信と北条氏康が和睦して越相同盟を結んだとき、その条件として氏政の二男・国増丸を上杉方への人質とすることが決まったが、永禄13年(=元亀元年:1570)には氏秀が養子となることとなり、4月11日に氏秀は上野国沼田城で謙信と対面を遂げ、そのまま越後国へと赴いた。
のち、謙信の初名である「景虎」の名と謙信の姪を妻に与えられ、上杉氏の一門として、謙信の居城である越後国春日山城二の郭に居住した。これを聞いた実父の氏康は謙信のとった待遇にたいへん悦び、礼状を送ったという。
天正6年(1578)3月13日に謙信が死去したのち、前関東管領・上杉憲政の居館である御館に立て籠もり、謙信の後継者としての地位を春日山城に拠った上杉景勝と争った(御館の乱)。
越後国内を2分したこの乱は1年に及び、翌天正7年(1579)3月17日、御館は景勝軍の猛攻撃を受けて落城した。
景虎を支援した憲政も景勝勢によって殺害され、景虎は実家ともいうべき小田原城へ逃亡する途中に越後国鮫ヶ尾城に立ち寄ったとき、城主・堀江宗親の謀叛にあって自刃した。3月24日、28歳であった。天文23年(1554)生まれの享年26とする説もある。法名は徳源院要山浄玄。