御館(おたて)の乱

天正6年(1578)3月13日、越後国の上杉謙信が没した。
武家の当主が没したのちに必ずといっていいほどに持ち上がるのが家督継承の問題だが、謙信が後継者を明確にしないままに急逝したため、上杉氏の次期当主をめぐる問題はことさら複雑であった。
謙信は妻帯せず、実子もないままにその生涯を終えたが、3人の養子があった。1人は北条氏康の子で、当時の北条氏当主・氏政の弟にあたる上杉景虎。また1人は謙信の姉の夫・上田長尾政景の遺児の上杉景勝。さらにもう1人は、能登国畠山氏を出自とする上条政繁。しかしこの政繁は養子というよりは人質のようなもので、上杉氏支流の上条上杉氏を相続して上条政繁と名乗っていたので、問題外である。
すなわち次期家督者はこの景虎と景勝に絞られ、この両陣営によって家督相続をめぐっての抗争が起こったのである。
さらにこの抗争は2人の争いのみならず、越後国内を二分する内乱へと発展していくことになる。

謙信の葬儀が執り行われた3月15日、景勝は「謙信公の遺言である」と称して謙信の居城であった春日山城の実城を迅速に占拠した(実城占拠の日には異説もある)。この実城とは金蔵・兵器蔵・米蔵などを備えた城の中枢区域、いわば城の本丸である。そして24日には自身が謙信の後継者であることを国内外に報じ、既成事実を作り上げたのである。
一方の景虎はこの実城に近い二の曲輪に居住していたが、景勝方の実城占拠に全く気づかず、一歩立ち遅れたことになる。
この両勢は5月5日に城下の大場村にて最初の武力衝突を起こしたが、春日山城内では、実城に拠った景勝方が眼下に見下ろす二の丸の景虎居館に向けて弓や鉄砲で威嚇攻撃を行った。圧された景虎は13日の夜になって妻子を伴って春日山城を脱出し、前関東管領・上杉憲政の居館である御館(別称:北河館)に立て籠もって景勝に対抗するに至った。
景虎が御館に拠ったことで、両陣営が近接する距離に拠点を構えて抗争するという構図となった。ここで展開の優劣を左右するのは、どれだけ多く外部からの援軍を動員できるかである。
景勝方には一門衆の上条政繁・山浦国清・山本寺孝長、刈羽郡の斎藤朝信・安田顕元、三島郡の直江信綱、蒲原郡の吉江信景(資堅)、揚北衆では本荘繁長新発田重家・竹俣慶綱らがつき、景虎方には一門衆の古志上杉景信・山本寺定長、頸城郡の堀江宗親、古志郡の本庄秀綱、刈羽郡の北条景広、蒲原郡の神余親綱、揚北衆では黒川清実・鮎川盛長、信濃国飯山城主の桃井義孝らが与した。傾向としては下越地方に景勝与党が多く、とくに揚北衆においては景勝派が多数であった。これに対する景虎は中越地方の有力領主の支持を多く得ただけでなく、陸奥国会津の大名・蘆名盛氏をも味方につけた。さらに景虎の実家である関東地方の大大名・北条氏や上野国厩橋城主・北条高広も景虎の後ろ盾となった。これにより、景勝方と揚北衆の連携を中越地方の領主らが断つと同時に蘆名氏が揚北地域(阿賀北:阿賀野川以北の地域)を牽制し、景勝の地盤である上田荘を含む魚沼郡を北条氏・北条高広が背後から脅かすという包囲戦略が現出したのである。

5月16日には景虎方が先制し、春日山城の城下町に火をかけて3千軒ほどを焼き払った。またこの日には堀江宗親・桃井義孝らが6千の軍勢を率いて御館に参着し、翌17日にはこれらの軍勢も加えて春日山城に攻めかかったが、景勝方が固く守って桃井義孝を討ち取り、景虎勢を撃退した。
さらに景虎は、実兄である氏政に支援を要請した。これを受けた氏政は北条高広らを先鋒隊として越後国に侵攻させると共に、甲斐国の武田勝頼にも軍勢の派遣を要請した。勝頼の妻は氏政の妹、景虎の姉であり、義弟を支援するため、5月29日に2万の軍勢を率いて信濃国から越後国に侵攻したのである。
この武田氏参入を知った景勝陣営は、武田氏を新たな敵に加えることを避け、黄金1万両と上野国東部の所領を割譲するという条件で武田氏に講和を申し入れたのである。この交渉は6月7日に成立し、当面の危機は回避された。
また、6月9日には景虎方であった頸城郡の猿毛城が内応して景勝方に属すようになり、下越・揚北地域との兵站が回復した。
武田氏参入の脅威から解放された景勝勢は、6月11日に御館に侵攻する。景勝は1万の軍勢を二手に分け、一手の大将を上条政繁として大手(正面)を攻めさせ、搦手(裏手)からは山浦国清を配して攻めさせた。対する景虎勢は7千の兵で大手は上杉景信、搦手は山本寺孝長を大将として迎撃したが、この日の戦いで上杉景信が討死した。景勝勢は13日に再び攻勢に出て府中の町を焼き払い、御館を丸裸同然にしたという。

越後国府での戦況は景勝方優勢に傾いていたが、関東地方からの防衛線となる魚沼郡域では寡兵での防戦を強いられていた。多勢をもって進軍してくるであろう北条勢に対し、景勝方は兵力の分散を避けるために坂戸城以外の城を放棄し、坂戸城のみを固く守るという策で備えたのである。
氏政の命を受けて先発した北条高広・景広父子や河田重親らは7月中頃に上野国から越後国に侵攻しており、8月下旬には氏政も上野国に出馬、9月初旬には弟の北条氏照氏邦を派遣して上田荘に攻め入らせている。しかし、共に攻める手筈となっていた武田勝頼は景勝と和睦して6月末頃には帰国しており、北条勢のみでは兵力を集中させて守る坂戸城を抜くことができないままに10月に至ったのである。
こののち氏政は、間もなく訪れる冬の深雪に退路を断たれることを危惧してのことか、北条高広・河田重親らを魚沼郡樺沢城に留めるとともに北条景広を自城の刈羽郡北条城に帰還させ、来年の再進軍を期して撤退したのであった。

一方の越後国府の戦線では9月下旬に本庄秀綱、10月上旬には北条景弘が御館に入城したことによって軍備が増強されたが、10月24日には景勝勢が御館に進攻してこの両名の軍勢を破った。このため秀綱は自城の古志郡栃尾城に退却した。
また12月中旬には、それまで中立的立場にあった越中国松倉城将・河田長親が能登・越中国の軍勢を率いて頸城郡能(能生)荘に着陣、景勝陣営に与することを表明した。これらのことによって景勝の優勢は確定的となったのである。
年は明けて天正7年(1579)2月1日、景勝勢は景虎方の北条景広の陣を攻撃した。若年ながらも剛勇で知られた景広は荻田長繁の槍に突かれても落馬することなく御館に逃げ込んだが、その日の夕方(一説には翌日)に死去した。
翌2日にも景勝勢は大軍を催して御館を攻撃した。館の外構えをことごとく焼き払ったために近辺は火の海となり、名刹の安国寺や至徳寺なども灰燼に帰したという。
また、魚沼郡域では北条勢の拠点となっていた樺沢城を景勝の直轄部隊ともいえる上田衆が奪還しており、雪に阻まれて関東からの援軍はないと見極めた景勝は2月下旬、上田衆に春日山城への参陣を命じた。総攻撃の準備にかかったのである。
さらに景勝方は御館を援助する鯨波小屋・上条城などを攻略、兵站を分断したことによって御館は完全に孤立するに至った。

敗色の濃くなった景虎陣営では上杉憲政が調停に乗り出し、3月17日には憲政が景虎の長男で9歳の道満丸を伴って和議仲裁のために春日山城に向かったが、その途中で両名とも景勝の兵に斬殺された。
もはや降伏の途さえ閉ざされたことを悟った景虎は、実家の北条領へ逃れようと御館から脱出して信濃国方面へと向かった。しかし、頸城郡の鮫ヶ尾城まで逃れたところで城主・堀江宗親の裏切りにあい、3月24日に自刃したのである。
この景虎の自刃をもって上杉氏家督をめぐる闘争は収束するが、この闘争より派生した越後国内における景勝派・景虎派による内乱はこの後も続いており、天正8年(1580)4月に本庄秀綱の栃尾城、6月に神余親綱の三条城が陥落したことによって完全に終結した。

この御館の乱を制した景勝は、上杉謙信の後継者という地位を得たことのみならず、反対派を一掃し、乱の過程や戦後の論功行賞において反対派から没収した所領を自派の武将らに宛行うことで家臣化し、支配力の強化を図った。
また、直江兼続ら「上田衆」と呼ばれる直臣団を厚遇、台頭させることによって自身への権力を集中させ、国主として絶対的な地位を得ることに成功したのである。