はじめ上杉家臣。伯耆守。河田長親の伯父(あるいは叔父)。
上杉謙信から上野国沼田城の守備を命じられて沼田城将となり、謙信の関東経略にも寄与した。
天正6年(1578)3月に謙信が急死して御館の乱が勃発したときも沼田城に在ったが、上杉景虎派であった重親は沼田城の帰属をめぐって上杉景勝派の沼田城将・上野家成と主導権を争ったが敗れて城から離脱し、6月11日には景虎の実家である小田原北条氏に帰順した。同年5月中旬に景勝方の上野国猿ヶ京城が攻撃を受けているが、これを率いたのが重親だったと目される。
沼田城離脱後の居地は不詳であるが、同年7月には景勝の本貫地である越後国魚沼郡上田荘に進撃して坂戸城を攻撃している。同年10月初旬頃より、上野国厩橋城主の北条高広らとともに坂戸城攻めの拠点として樺沢城に駐留したが、翌天正7年(1579)2月頃に樺沢城は陥落あるいは開城し、重親は上野国に撤退している。
同年5月には北条氏の本拠である相模国小田原で北条氏政に謁し、正式に北条家臣となって不動山城(別称を見立城)将となったが、かねてより待遇に不満を抱いていたこともあり、同年12月には武田勝頼に服属した。
しかし天正9年(1581)頃までには武田氏より離反して再び北条氏に転じ、天正18年(1590)に北条氏が滅亡したのちは徳川家康に仕えたという。