武田勝頼(たけだ・かつより) 1546〜1582

武田信玄の四男。母は信玄の側室となった諏訪頼重の娘。通称は四郎。大膳大夫。はじめは諏訪氏の名跡を継いで諏訪勝頼と名乗っていた。
永禄5年(1562)に伊那郡高遠城主となる。
永禄8年(1565)、信玄の長子で勝頼の兄にあたる武田義信が失脚し(武田義信幽閉事件)、二男の信親(竜芳)は出家しており、三男の信之は早世していたため、四男の勝頼が信玄の後継者と目されるようになった。元亀3年(1572)に甲府へ移り、元亀4年(=天正元年:1573)、信玄の死去により家督を継いだ。
剛勇をもって知られ、天正2年(1574)には徳川家康の属城・遠江国高天神城を落とし(高天神城の戦い)、また東美濃の織田家の諸城をも攻略し、一時は信玄在世中よりも武威を揮った。
天正3年(1575)5月には勢力拡張のために三河国に進出するが、徳川・織田連合軍との戦い(長篠の合戦)に大敗し、山県昌景馬場信房などの信玄薫陶の将士の多くを失った。
その後の提携策として天正5年(1577)に北条氏政の妹を娶ったが、天正6年(1578)、上杉謙信没後の越後上杉氏の家督争い(御館の乱)に景勝を支持したために北条氏政と対立することとなり、東は織田・徳川氏、西を北条氏という強敵に囲まれるという事態に陥ったが、天正7年(1579)に妹の菊姫を景勝に妹を嫁がせることで上杉氏との提携を図った。
しかし膨れ上がった所領を維持するための過重な軍役によって国力が疲弊し、統治は難航した。
天正9年(1581)に高天神城が徳川家康に取り返され(高天神城の戦い:その2)、翌天正10年(1582)には妹婿である木曾義昌、ついで親族の穴山信君が叛くに及んで、武田王国も転落の歩調を速めることになる。
2月に至って、十数万にも及ぶともいわれる織田家の軍勢に信濃から侵入されると、かつて精強を謳われた武田勢は四散、高遠城の落城(高遠城の戦い:その2)や小山田信茂ら家臣の裏切りもあって勝頼は防ぐ術もなく、3月11日に甲斐国山梨郡田野で自刃した(武田征伐(田野の合戦))。37歳。この前後に一族のほとんどが滅亡した。